横浜アザミロータリークラブ
横浜あざみロータリークラブ/YOKOHAMA AZAMI ROTARY CLUB
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2020~2021年度・卓話
例会日 タイトル 卓話者
 8月19日 視察報告「チェルノブイリ原子力発電所ー旧ソ連の極秘軍事施設でもあった」  千葉 百子 様
 10月21日   ハダノウィチ アレクセイ さん 米山奨学生
 11月11日 アンガーマネジメント~「怒り」について考えてみよう、「怒り」って何?~  日本アンガーマネジメント協会ファシリテーター
畑 さち子 様 
11月25日   帰国報告  新井 凛子 さん R財団学友 
 1月6日 帰国報告 小出 真理子 さん 2019-20年度青少年交換学生 
1月6日 帰国報告
小出 真理子 さん(2019-20年度青少年交換学生)
こんにちは。ブラジル派遣生の小出真理子です。今日は帰国報告をする時間をくださりありがとうございます。
私がこの留学で感じたことについて話していこうと思います。
まず、私が派遣されたのはサンパウロ州にあるフランカという街です。人口が三十五万人というそれなりに大きな街でした。フランカはフランス、イタリア系の移民が多く住んでいる街で、アジア系の人をほとんど見かけなかったです。そのため私は名前を知らないのですが、私のことを知っている人が多くいて、とても親切にしてもらえました。
私はこの留学で二家族の方たちにおせわになりました。
1stホストファミリーは、同じ時期に日本へ交換留学をしていたグラジの家でした。グラジのお姉さんと同じ学校だったので、一緒に登校したり、ご飯を食べたり、旅行が好きな家だったので、サンパウロに連れて行ってもらったりととても楽しい時間をすごせました。
2ndホストファミリーは、本当なら去年の夏からドイツに交換留学に行く予定の子の家でした。ホストファザーとホストマザーの親の家は違う州にあるため、クリスマスとお正月の帰省に着いて行かせてもらいました。そこでイグアスの滝に連れて行ってくれたり、ホストマザーのおばあちゃんが日本人だったそうで、焼きうどんを振る舞ってくれました。それが私がブラジルに来て初めて食べた自分以外の人が作って下さった日本食でした。とても美味しく、嬉しかったです。
ホストファミリーはどの人も優しくて、私のことを気遣ってくれたとてもいい人たちです。
それでは、まず、食生活について話していこうと思います。
ブラジルでの食事は揚げ物や、肉が多かったです。私はその中でも特にパステルというパイ生地のようなものに肉や、チーズなどを入れて上げたものが特に好きでした。そして、ブラジルでは肉は生のまま吊るされて売られていることが多く、量り売りをしているところを初めて見たときとても衝撃的でした。また、お菓子は甘いものや手作りのものが多く、日本で食べるものとはまた違った感じでとても美味しかったです。
次は、学校生活について話していこうと思います。ブラジルは季節が反対なので、8月のはじめに冬休みが終わります。なので学校には着いてから3日が経ったぐらいから行き始めました。
授業は当時高校二年生の人と一緒に受けましたが、最初の方からわかったのは、英語と、物理ぐらいでした。三ヶ月ほど経つと演習が多くその中でも文章題が多かった数学がわかるようになっていきました。
特に難しかったのは科学と歴史、文学に哲学の授業でした。化学は習ったことのない構造式が多く出て、本当にわかりませんでした。また、歴史は世界史とブラジル史の2つがあったのですが、どちらも歴史と書かれていたため8ヶ月経つまで授業のつながりが見えなくてとても混乱していました。文学や、哲学はもともと学校で習っていなかったため事前知識がなかったので難しかったですが、とても興味深かったです。
その他に苦労したものは、ブラジルはポルトガル語が公用語なので、文字は英語でも使われているラテン文字でしたが、多くの授業で筆記体を使って先生方は文字を書いていました。私の学校では筆記体の読み方書き方を習わなかったため、筆記体を覚えるところから始まったのは予想外でした。ですが、筆記体がわかるようになると授業の理解度が上がっていくのがとても嬉しかったですし、改めて文字は大切だと思いました。
次は宗教について知ったことについてお話ししようと思います。
ブラジルは人口の約90%がキリスト教で、私が行った街はどこもとてもきれいな教会がありました。一番右の写真は私が行った街にあった教会です。教会の多くは街の中心にあったり、丘の上にあったりと目立つ場所に多くあり教会というのはとても大切な場所なのだと実感しました。また、美術館に行ったときには絵の展示の中で半分ほどが宗教画だったのが自分ではとても衝撃的でした。また、ブラジルにはイスラム教徒の人も多くいるので、右の写真のようなハラール食品を使っているチェーン店があり、これにもとても驚きました。日本でも宗教や信条にあったチェーン店が展開されれば食事制限がある人でも旅行などに来やすいのではと思いました。
次に、イベントについて話していこうと思います。ブラジルでは多くのイベントを楽しんだのですが、時間の都合上2つに絞らせていただきました。まず、ファンタジスタというイベントです。
ファンタジスタは直訳すると衣装という意味ですが、仮装やハロウィーンという意味で多くの場合つかわれます。また、学校でも一番上の学年に為るとある程度自由にイベントを企画できるようで、 一ヶ月に一日だけ制服ではなく、クラスで決めたテーマに沿った服を着て学校に行くことができる日があり、それもファンタジスタと呼ばれていました。テーマはパジャマ、ファンタジーのようなよく聞く仮装もありますが、ジェンダーレスや、1980年代、民族衣装などがテーマの日もあり楽しく学べる良い機会だと思いました。
次に、クリスマスについて話していこうと思います。クリスマスは、日本と飾られるものなどは同じでしたが、規模が大きく、とても盛大に祝われていました。ショッピングモールでは大きなもみの木が飾られたり、メリーゴーランドなどの遊園地で見るようなアトラクションが設置されたり、サンタの格好をしたおじいさんと写真を取ることができたり、街の中心の広場ではサンタの家が設置されたりと、こどもがとても楽しめる用になっていました。また、市役所のようなところでは毎年きれいなイルミネーシションを行っていて、その前の道路が夜になるととても渋滞するのを聞いたときは大人もクリスマスを楽しんでいるのだなあと思いました。私の記憶の中にとても残っているのは、イルミネーションや飾りの中に必ず、イエス・キリストやマリアを模した物があったことです。日本では余り見ることがなかったのでとても新鮮でした。
そして、ロータリーでの活動です。私は向こうでの生活で、水曜日の午後にインターアクト、金曜の夜にロータリーの例会に参加していました。そして、ロータリーでは交換留学生として、2,3ヶ月に一度ほど、食べ物を売って、何かに困っている人などへのお金を集める活動に参加していました。日本では、困っている人にお金を集める手段として募金という方法ぐらいしかやったことがなかったので、とても良い経験でした。
そして、交換留学生としての活動は大体月に一回ほどありました。交換留学生は私を含めて20人いて、アメリカ、ドイツ、メキシコ、ベネズエラ、アルゼンチンの人がいました。日本人は一人しかいなかったのですが、みんなとても気さくでいい人でした。交換留学生のための約一ヶ月間の旅行に参加したときには他の地区に来ている人などとも会えました。一緒に旅行した人は10カ国もの国から来ていて、それぞれの国の言葉をし得てもらったりと、とても楽しかったです。また、旅行の中で一番心に残っている都市はブラジルの首都ブラジリアで、そこに行ったときには計画都市の町並みがとてもきれいでまるでレゴブロックで作られたようでとても衝撃を受けました。たくさんの人やものに刺激を受けたとても良い機械でした。
最後に、ブラジルに行く前や、行ってからもサポートしてくださったホストクラブであるあざみロータリークラブの皆様、青少年交換委員の皆様お世話になりました。本当にありがとうございます。始めブラジルに派遣すると聞いたとき、どのような経験ができるのかがとても楽しみでした。私はこの留学を通じて自分が今まで知っていた世界がどれだけ狭いものだったのかということに気付かされました。そして、留学から帰った今、このかけがえのない経験をどのようにしたら活かせるのか悩んでいる途中ですが、ローテックスとしての活動や、これからの勉強、ボランティアなどを通して今まで あった人たちや留学や観光で来る人たちとの架け橋となれるようになりたいと思っています。

写真は2021.1.6,kikokugakusei.pdf へのリンク
 
11月25日 帰国報告
新井 凛子 さん(R財団学友)
2019-20年度地区補助金奨学金のご支援をいただきまして英国ロンドンスクールオブエコノミクスに留学していた新井凜子です。
2020年8月に日本に帰国いたしました。
本日はお招きいただきありがとうございます。
ロンドンではButler’s Wharf(バトラーズ・ウォーフ)という、ロンドン東、テムズ川南岸の地域に住んでいました。タワーブリッジ(下写真)という歴史ある橋の近くで、静かな地区です。


英国では第1260地区というロンドンの北に位置する地区が受入地区で、Baldock(バルドック)RCにお世話になりました。ホストカウンセラーはKeith Britter氏で、英国に到着した日にはBritter夫妻が空港まで迎えに来てくださいました。またクリスマスはBritter夫妻に自宅へ招いていただき、夫妻とその娘・息子家族とともに英国流のクリスマスを過ごしました(下写真)。


Baldockの他にも、4つのRC例会に呼んでいた
だき、卓話を行いました。オンラインで行われた
ところもありました(下写真)。


例会以外では、第1260地区の一大イベントであるSpring Expoにも参加しました。Spring Expoではロータリー関連の活動報告に加えて、外部からのゲストによる講演会なども行われました。
修士論文の研究では、専門である中国新疆ウイグル自治区の民族問題を念頭に、言語教育について日本の沖縄県と比較しています。新疆では、ウイグル族への政治的弾圧を背景に、教育現場では漢語(中国共通語、いわゆる中国語)での教育がトップダウンで進められ、ウイグル語を含む民族言語の使用は厳しく制限されています。日本に目を向けてみると、琉球王国から沖縄県として日本に組み込まれた沖縄では、明治の近代化の流れの中で国語教育が推進されるに従い、学校で方言の使用が禁止されました。修論研究では「近代化」と「言語教育」をキーワードに、新疆と沖縄の比較研究を行っています。

わたしは現在、中国の西安交通大学の語学研修生として中国語を学んでいます。本来は現地に留学する予定だったのですが、新型コロナウイルスの影響で、現在は熱海の両親宅からオンラインで授業に参加しています。また修士論文の提出を2020年3月にひかえており、修士号取得後は博士課程へ進学したいと思っております。将来は大学等で研究職に就きたいと思っております。ロータリアンの皆様のご支援で学んだことを活かし、今後も精進して参りたいと思います。本日はありがとうございました。
 
11月11日 アンガーマネジメント~「怒り」について考えてみよう、「怒り」って何?~
畑 さち子 様(日本アンガーマネジメント協会ファシリテーター)
プロフィール
兵庫県西宮市出身、横浜市港北区在住。
1980年に大阪大学人間科学部を卒業。
日本航空(株)に入社、地上職で、国際線の予約、発券、部下育成に携わっていました。
夫の転勤による転居のため、退職。
2人の子どもを育てながら、転勤帯同を繰り返しながら、子育て本の執筆・編集・出版、海外での日本語教師など、様々な仕事をしてきました。
2000年に帰国後、日本最大のコーチ養成機関コーチ21(現コーチエイ)にてコーチングを学び始め、現在はコーチ専業。
1対1のコーチングや、コーチング、アンガーマネジメントをはじめとするコミュニケーション関係、またキャリア関係の研修、講演を行っています。
【資格】
国際コーチング連盟プロフェッショナル認定コーチ
日本アンガーマネジメント協会ファシリテーター  など


ほとんどの人は「怒り」という感情がどういうものであるか、体験をしたことはありますが、実際にどういうものであるか、学んだことはありません。
私達が「怒り」をコントロール出来ずに、「怒り」の感情に飲まれてしまうのは、「怒り」を客観的に理解できていないから、とも言えます。
なので、「怒り」とは何なのか?ということを考えます。それから、なぜ私達は怒るのか、私達を怒らせている物は何なのか?を考えます。
それを知り考えることで、かなり客観的に自分の「怒り」を捉えることができます。

またアンガーマネジメントは「怒りについて後悔しないこと」です。
「怒らないようになること」ではなく、「怒る必要のあることは適切に怒り、怒る必要の無いことは怒らない。
その線引きを上手にする。」ことが大事です。
ですが、問題となる「怒り」は4つあります。
それを知った上で、皆さんの「怒り」の傾向について探ります。
30分という短い時間ではありますが、「怒り」について客観的に考える機会はあまりないと思うので、何か少しでも新しい気づきを手に入れていただければうれしいです。

 
10月21日 
ハダノウィチ アレクセイ さん(米山奨学生)
ベラルーシと経歴

内容は2020.10.21.pdf へのリンク

 
8月19日 
千葉 百子 様
チェルノブイリ原子力発電所4号炉が1986年4月26日午前1時23分に爆発事故を起こし、莫大な被害をもたらしたことはよく知られている。この異常を最初に検知したのは翌27日スェーデンのフォルスマルク原子力発電所の所員であった。発生源を調査し、西ソ連、ベラルーシ付近の原発で起きた可能性が示唆され、ソ連政府へ問い合わせた。ソ連政府は4月28日午後9時、調査結果の事実確認を受けた内容を認めた。事故発生から2日半(68時間後)を経て世界中が知ることとなった。事故当時はソ連であったが、1991年にソ連は解体し、チェルノブイリ原発はウクライナ国の管理下となった。

 チェルノブイリ原発はプリピャチ市(原発作業員の城下町、人口約5万人)にあり、ウクライナの首都キエフは南へ約120㎞、北側の隣国ベラルーシの国境へ約7kmに位置にしている。ウクライナ側の被災地41,900 km2を「立ち入り制限区域および強制立ち退き区域」とした。原発から30km圏内を立入禁止区域とし、そこに住む135,000人(116,000という記述も見られる)を事故1週間後(52日)から強制退去させた。プリピャチ市の住民約46,000人は事故の2日後から避難が開始された。2市を廃市、94村を廃村、12村を埋め立てた。廃市廃村となった地名を記したプラカードが約200mにわたって30㎞圏内に並んでいる。

現在は存在しない廃市、廃村となった地名のモニュメント(20179月撮影)

表側

裏側
 ベラルーシ共和国側は46,500 km2を「国営ポレーシェ放射線環境管理区」とし、住人22,000人を強制退去させ、92村を廃村、13村を埋め立てた。
 4号炉から放射線は漏れ続けていた。7か月後に耐用30年の覆い(石棺)が完成した。2016年に新石棺が旧石棺の上にかぶせられ、環境放射線はかなり低下した。

新石棺

    
シェルター(新石棺)に覆われた4号炉(20179月撮影)
付近の放射線1.51.8μSv/h

 ウクライナ政府は放射線量が低下したことから20101221日から許可を得れば原発から30㎞圏内への立入りを認めるようになった。私は独協医大、木村真三准教授の指導を受けながら福島県農民運動連合会代表の4人と共に20178月に1週間ウクライナへ行き、3日間30㎞圏内の視察をした。その時はまだ4号炉建屋内を視察させてもらうにはハードルが高かったが、その翌年頃からウクライナ政府は原発地域を観光地化し、積極的に観光客を誘致し、4号炉建屋内の見学、4時間のツアー(日本円に換算して約2万円)を実施しているという情報を得て、20198月に再度1週間ウクライナを訪問した。ウクライナ政府は4号炉の廃炉処理等の費用の捻出に苦労しており、観光収入をその一部にあてたいということである。

4号炉建屋内では中央制御室、
4号炉建屋内 中央制御室(20198月撮影)


  緊急停止ボタン
   左は説明者スタニスラフさん
安全保安作業員の部屋、
4号炉建屋内 安全保安員の作業室(20198月撮影)


医務室、給水ポンプ場などを見学した。模型を使って発電の原理、爆発の状況などの説明があった。

<チェルノブイリⅡ> 原発から約8㎞のところに地図にもない、住所もない大きな軍事施設があった。ここに入るには別の許可が必要で、観光客はほとんどいない。巨大な網のような鉄塔群、高さ90 m(一部150 m)、幅20 m、長さ800 m、受信専用レーダーで、西側諸国(主にUSA)の動きを探る地球規模の耳の役割を果たしていたとガイドの説明であった。

チェルノブイリⅡ(20179月撮影

1960年代から計画あり、1970年代にチェルノブイリ原子力発電所と並行して建設された。外には2階建ての大きくない建物が一つあるだけで、約20003000人が地下に造られた9階建ての事務所で作業していたという。原発事故後撤退し、コンピュータ類は破壊された。外の建物にコンピュータの基盤と思われるものが大量に捨てられていた。

捨てられたコンピュータ基盤(20179月撮影)

  
 チェルノブイリ原発は発電した電気を国外へ供給していたが、この旧ソ連の極秘軍事施設が多量の電力を必要とするために近くに原発を同時に造ったと考えることは妥当であろう。この施設は使用不可となったが、それに代わる施設がどこかにあるに違いない。USAなど西側の国もまた、同じような施設を持っているに違いない。

 チェルノブイリや福島を原発事故跡としてみるのではなく、放射線の影響としてみてほしい。広島や長崎の原爆は大きな被害をもたらしたが、現在の核兵器から見れば小さい部類である。UNESCO憲章の冒頭部分「戦争は人の心の中で生まれるものであるから 人の心の中に平和の砦を築かなければならない」を多くの人が心に刻んでほしい。

 30㎞圏内で記憶に深く刻まれたものに「犠牲消防士の慰霊碑」がある
犠牲消防士の慰霊碑(20179月撮影)


非常招集を受けた28人の消防士が普段着のまま駆け付け、何ら放射線防護をすることなく作業をし、夕刻に家族へ病院にいると連絡した。そのままモスクワの病院へ連れていかれ、骨髄移植などを受けたがほぼ2週間のうちに全員が死亡した。ご遺体は強い放射体になってしまったため、鉛のお棺に入れられ、モスクワの特殊墓地に埋葬されているという。4号炉から10㎞圏内にある慰霊碑は事故10年後に現役の消防士らが建立したものだそうである。

 30㎞圏内で最も環境放射線が高かったのは4号炉の上に設置してあった「爪」といわれる部分が置いてあったところで、202.3μSv/hあった。
4号炉の「爪」といわれる部分(20179月撮影)

テキスト ボックス: 環境放射線
202.3 μSv/h
「赤い森」と言われているところは放射能焼けしで事故後2日で150ヘクタール一面赤茶色になり、植物は立ち枯れた。現在は通常の色の植物が生えているが、15μSv/h程度で、一般環境としては高値である。

「赤い森」の現在 (20179月撮影)

    

 テキスト ボックス: 環境放射線
14.7μSv/h

       

<甲状腺摘出手術を受けた女性の話> 首都キエフでユーリァ ラルテンコさん(38歳、会計士)に話を聴けた。

甲状腺手術を受けた女性(20179月撮影)

    

 首に手術跡がはっきり残っている。父親がチェルノブイリ原発の職員で、プリピアチ市に住んでいた7歳のときに被曝した。事故の2日後に大型バスで黒海沿岸へ連れていかれた。バスは1200台とも1500台とも言われているが正確な数はわからない。鉄道で避難した人たちもいる。何度か移転させられ、約1年後にキエフの集合住宅に入居した。12歳の時に甲状腺に異常が見つかった。23歳(2002年)で甲状腺摘出手術をうけた。医者は第三段階の腫瘍で、放っておくと癌になる状態、原発事故が原因であると話した。手術代金は無料だが、医薬品は自費。母親が被曝証明を取ってくれたが、就職や結婚の障害になるかもしれないと取らなかった人も多くいる。

<自発的帰村者・サマショーロ> 原発から10km30㎞の間の村に住んでいる。ほとんどが年老いた女性。
自発的帰村者 (20179月撮影)

 


 兵士が玄関の戸をドンドンたたき、住人の腕をつかんで連れて行き、強制避難させた。家の奥に潜んで残った住民もいた。その後に先祖代々の墓地の近く、住み慣れた家に戻って来た。避難先で一代限りの住宅を与えられていたが、それを放棄して前の家に戻って来たため、現在は住宅に関しての支援はない。電気代は年金から引かれ、水は井戸水で無料、燃料は冬季の暖房用も含めて槇(白樺)の手配を役所がしてくれる。日用品は2~3週間に一度販売車が来る。  


新型コロナウィルス(COVID19)と消毒
今年は1月中旬からトップニュースは依然として新型コロナウィルス(COVID19)感染症である。ウィルスはDNARNAのどちらかしか持たず(COVID19RNAウィルス)、細胞膜がない。生きた細胞(宿主)に寄生して増殖する。これらの点が細菌と異なる。解ってきたことはCOVID19ウィルスの突起が宿主細胞の"ACE2“蛋白と結合し、細胞内に入り込み増殖するということである。会食、カラオケ、ライブで感染するということは口腔内、舌表面にACE2が多く存在しているかもしれない。
 対策の第一は個人の免疫力にある。自然免疫は非特異的に白血球が対処する。自然免疫力は年齢や生活習慣等によって影響を受け、50歳を過ぎると半減すると言われている。獲得免疫に期待したい。指令型T細胞がB細胞に抗体を作らせる。ウィルスの持つ鍵と抗体の鍵穴が合致したときに効果が表れる特異型であるが、鍵と鍵穴の関係を認識するまでの時間が必要である。指令型T細胞はまたキラーT細胞にウィルスをどんどん食いつぶせと指令を出すが、指令が強すぎると自己免疫疾患が憂慮される。消毒に関して消毒用アルコール(局方 76.9~81.4 v/v%)が有効であるといわれているが、高価、可燃物、場合によっては酒税の対象となることに注意が必要である。一般によく使われている次亜塩素酸ナトリウム(商品名ハイター、ブリーチ、さらしこ等)は0.05~0.1%(500~1000ppm)で有効であるが、アルカリ性であり、手指や器物(特に金属製)の消毒によくない点と脱色効果があることに注意が必要である。最近注目を集めたのが“次亜塩素酸水”である。名前はよく似ているがこれは酸性で、副作用は少なく手指にも使える。食品添加物としては使用されているが、消毒剤としての使用例が少なかったことと、新型のウィルスであったために経済産業省も当初は次亜塩素酸水は新型コロナウィルスに有効か否か「わからない」としていたが、4月下旬から「有効」であり。「手指に使用可」とした。商店の入り口に置いてある手指消毒薬は逆性石鹸(塩化ベンゼトニウム)が使われているものが多い

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