横浜アザミロータリークラブ
横浜あざみロータリークラブ/YOKOHAMA AZAMI ROTARY CLUB ROTARY INTERNATIONAL
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2008-2009 |2010-2011 2011-2012
 
2012~2013年度・卓話
例会日 タイトル 卓話者
     
   
2月27日 カンボジアの子供たちへの支援活動 小野田 せい子 様
2月20日 シュタイナー教育の実践 横山 義宏 様
1月16日 ロータリー綱領について 桑原 薫 様(横浜港北RC)
1月9日 大貫 アイ 様
11月20日 ガバナー卓話 露木 雄二 様(第2590地区ガバナー)
1月14日 会員卓話 遠藤 ふきこ 会員
11月7日 R財団月間卓話 一樂 祥子 会員
10月31日 故郷と日本 グリアイシャム・アブラト さん(米山奨学生)
9月12日  今、話題のアンチエイジングより
≪「自分の年齢は自分で決める !」≫ 
小吹 優 様(横浜金沢みどりRC)
9月5日 会員卓話 一樂 祥子 会員
8月29日 インターアクトクラブ活動報告 クラーク記念国際高等学校横浜青葉キャンパス
IAC会長・幹事
8月8日 涌谷日本初産金の歴史 森 俊彦 様
7月24日 私の好きなモノ、好きなコト 石川 俊 会員
7月11日 時代の流れに乗れない仕事 伊藤 正敏 様
 
2月27日 カンボジアの子供たちへの支援活動
小野田 せい子 様
100年を超えて活動しているロータリークラブの「奉仕を通じて平和を」という標語を見て、私にも3人の孫がいますが、子供や孫の時代に世界が平和であるよう願わずにいられません。
私は、1997年夫の急死によりその遺志を継いで教育支援活動を志しました。国際交流協会を通して多くの留学生をホームステイさせてきましたが、カンボジア人留学生に好感を持っていたことと、カンボジア支援をしているNPO法人(WAFC)の新聞記事を見て、この法人を通してカンボジアの農村に小学校を建てて支援を始めました。
 2001年3月に開校し、今年で12年になります。私の学校(Takao Onoda School)は、WAFCが建てた5百の政府公認小学校の50番目の学校です。1番目は広中和歌子さんが、2番目は東京新都心RCが建てて支援しています。この小学校は首都プノンペンから車で1時間半ほど北に位置していますが、電気、水などのインフラが整っていません。田んぼの水を炊事洗濯などに利用するので、掃除をするという習慣はありません。私が行くと皆が御馳走してくれるのですが、濁った汲み置きの水で調理したものはのどを通りません。
村の子供達は1年生で入学しても3年生で半分になり、卒業まで在籍できるのは10人に1人。家の労働力として家計を支えるのが普通です。私はなんとか教育を続けさせたいと思い、現金収入源になるマンゴウを記念植樹したり、6年生にご褒美としてプノンペンへの卒業旅行をプレゼントしたりしました。6人の子供のいる農家の年収が20ドル程度のカンボジアでは、一万円もあれば貸し切りバスで50人を連れて観光できますが、村から出る機会のない人たちにとっては、それだけで話題となり、参加名簿以外の地縁・血縁者が紛れ込んできます。発展途上国への支援はどうしても公平にはいきません。
 2003年からはNPOを通した支援から離れ、直接小学校に出向いて支援するようになりました。音楽の授業のなかった小学校にピアニカを持ちこみ音楽教育も始めました。朝日新聞の支援でピアニカを40台贈り、首都から破格の謝礼で音楽教授を招いて音楽教育をした時期もあります。海、故郷、上を向いて歩こう、ドレミの歌などの日本語の曲を教え、2006年の開校5周年を迎える頃には、タンバン村チャンモリー寺院での音楽祭に出演するまでになりました。これは年次行事となっています。また、この頃、日本語教室を開設し、奨学生制度を導入しました。現在は王立プノンペン大学の日本語学科に入学した村出身の学生に奨学金をだしています。日本語にこだわっているのは、将来日本とカンボジアの架け橋になる人材を育てたいという思いがあるからです。
10年間支援活動をしてきましたが、困難なこともありました。まとまったお金を送金しても途中で消えてしまいます。郵便局長があてにならないのです。また、高校に進学する子は村で1人ぐらいですが、優秀だから奨学金の対象になると目を付けていた子がいつの間にか結婚して進学をあきらめてしまうこともありました。早婚で男子でも16歳くらいで結婚してしまうのです。
 いま、クラーク記念国際高校横浜青葉キャンパスのインターアクトクラブ生とカンボジア大学日本語学科で学ぶ奨学生との間で文通を始めています。日本語学科の学生は今は小学3年程度の日本語力です。日本語の授業に文通という項目があり、高校生からやさしい日本語で書いた手紙をもらえれば勉強になります。将来私も歳をとって現地に出向くことが難しくなってきますが、文通がスムーズに行くよう支援していくことはできるでしょう。
最後になりましたが、今日私が着てきたのは、カンボジアの民族衣装です。現地で誂える事は現地の人の仕事を創出することです。この布の折地模様は未婚、既婚、年寄で違う決まりがあります。ありがとうございました。
2月20日 シュタイナー教育の実践~自然と呼応して、生きる喜びを感じる教育~
横山 義宏 様
横浜シュタイナー学園は、NPO法人の小さな学校です。2005年に横浜線十日市場駅から徒歩20分のところに開校しました。現在1~8年生の約110人の子どもたちが通っています。
ルドルフ・シュタイナー(1861-1925哲学博士)の人間観に基づいて教育を行っています。今日は、シュタイナー教育の概要をご紹介したいと思います。
理想の教育を求めて
わたしは、桐蔭学園からう余曲折はあったものの早稲田大学に進学し、卒業後はそごうデパートで財務を担当していました。忙しい毎日を送る中、(人の生き方はこれでいいのだろうか)、自分の受けた教育を振り返り、「本当の教育とは何だろう?」と考えるようになりました。すでに結婚し、娘もいましたが、一念発起して渡独。5年間ドイツでシュタイナー教育を学びました。

シュタイナー教育紹介
20世紀初頭の哲学者ルドルフ・シュタイナー(1861~1925)は、1919年、ドイツのシュトゥットガルトに自由ヴァルドルフ学校(シュタイナー学校)を創立しました。
欧米を中心に広がり、現在、世界中に約1000校のシュタイナー学校があり、共通の理念のもと、それぞれの国、風土、民族性などにより育まれ、発展を遂げています。
日本では、現在8校のシュタイナー学校があり、約1000人の子どもたちが通っています。その内2校は学校法人です。

シュタイナーはその教育理論の中で「教育は芸術にまで高められるべきだ」と語っています。教育とは単なる知識の伝達や技術の開発を指すのではなく、人間の本質を理解しようと探求し、刻々と変化し成長する子ども一人ひとりの全存在を見つめながら子どもと教師の一期一会の関係を作り上げていくことであるという高い理想がシュタイナー教育の根本にあります。

シュタイナー教育は、子どもが意志、感情、思考において調和のとれた人間として成長することを目的とし、そのために、人間の心身の発達段階に応じた独自の教育を行っています。
シュタイナーは、子どもの成長をほぼ7年ごとに捉えました。
0~7歳 ・・ 意志の教育(体の基礎を作る時期)
7~14歳 ・・ 感情の教育(感情を豊かに育む時期)
14~21歳 ・・ 思考の教育(抽象的・論理的思考を養う時期)
年齢によって、意志・感情・思考に働きかけていくことによって、子どもたちはそれぞれの方法で「他者に依存せず、自立した判断ができ、物事を深いところで体験し、創造的に行動する人間」へと成長していきます。
シュタイナー教育の特徴           「芸術としての教育」             小中一貫編成の私たちの学園では6歳~15歳の年齢の子どもたちが学んでいます。シュタイナー教育ではこの時代を豊かな感情を育む時期と捉えています。この時代の子どもたちは、単に知識を詰め込まれ、他者と比べられる中で勉強するのではなく、芸術的な教授法を通して「世界は美しい」という喜びを受け取ることが重要です。この積み重ねが、社会に出てからも、生涯にわたって自ら学んでいこうとする力となっていくのです。
「点数によらない評価」
良い点数を取るためではなく、学ぶ喜びや発見の驚きが、子どもたちの心身を健やかに育てると考えます。学年末には、それぞれの成果と課題が表現された文章と手づくりの詩による通信簿が一人ひとりの子どもに贈られます。

「9年生まで同じ担任・同じクラス」
就学から思春期に至るまで、心身ともに大きく変化をとげるこどもたちを一貫して見守る存在がクラス担任です。
同じクラスと歩み続けることで、教員は子どもたちの成長の変化を的確に捉え、ふさわしい教育をほどこすことができます。教員も常に変化を求められ、子どもたちとともに成長してゆくのです。

「エポック授業」
毎朝100分間、3~4週間にわたって国語や算数などの同じ教科を集中的に学ぶ授業スタイルはエポック授業と呼ばれています。
細切れでない集中した学びが得られるとともに、学び終えた教科はいったん忘れることで学習内容はしっかり消化され、より深い理解へと変化していきます。

横浜シュタイナー学園の今
1学年15名でスタートしましたが、1学年ずつ増えていき、来年度初めて1~9年生がそろいます。2011年には、国連の教育機関であるユネスコの理想を実現する学校としてユネスコスクールに認定されました。
日本では学校法人の認可基準が大変厳しく、学校としての認可が得られていないため、NPO法人という形で運営しています。制度面、財政面など課題は多いですが、この社会に「自然と呼応して、生きる喜びを感じる教育」を実現するため、日々努力していきたいと思います。
1月16日 ロータリー綱領について
桑原 薫 様(横浜港北RC)
「ロータリーの綱領」の和訳について
A. object は、目的を達 成する為の目標         
B. encourage とfosterは同意語のくり返しで「推し広める」・「広
く行きわたらせる」の意味
C. 第1項のasは=の意味
D. 第1項のasの後にはthe development ofが省略されている
E. ideal はこの場合、理想ではなく理想像
F. basisはこの場合、基礎ではなく基盤で、生活基盤の基盤と同意      
G. 第2項は(Ⅰ・Ⅱ)+(Ⅲ as Ⅳ)ではなく(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ)as Ⅳ       
H. recognitionはこの場合、認識ではなく「評価・お礼」                  
I. worthinessはこの場合「尊重されるべき」ではなく「ふさわしさ」         
J.to serveはⅢにかかるのではなくan opportunityにかかる         
K. societyはこの場合「社会」ではなく原義のとおり「仲間の集まり」       
L. eachは「すべて」ではなく「めいめいの・それぞれの」
Ⅰ  encourageとfosterの目的語は「奉仕の理想」と4つの項目です。奉仕の理想を理解するには「利己主義と利他主義の共通点」及び「競争と共生の正しい関係」そして「相利共生と寄生の違い」を理解する必要があります。
Ⅱ 第2項は職業奉仕についての記述ですが、これを正しく和訳するには、「societyとcommunityの違い」及び「広義の職業奉仕と狭義の職業奉仕の違い」そして「1902年のoccupational serviceと1927年のvocational serviceの違い」について理解することが必要です。
Ⅲ 第3項は個人奉仕についての記述です。「奉仕の理想」の対象を「まわりの人すべて」としたものが第3項の「生活への適用」です。1927年に奉仕対象を、クラブの人々・職業関係の人々・地域社会の人々・国際社会の人々と限定したものが四大奉仕です。個人奉仕とは「団体奉仕のリスク」をカバーする為のものです。

ロータリーの目標(英文直訳モード)
ロータリーの目標は、立派な事業の基盤としての奉仕の理想像および下記の各項をとくに推し広めること
1、 奉仕の機会の開拓は、知り合いの開拓
2、 職業関係者への奉仕にともなう職業における高い道徳的水準・すべての立派な職業にふさわしい評価・各ロータリアンの職業の高品位化
3、 それぞれのロータリアンの個人生活、職業生活、社会生活における「奉仕の理想像」の適用
4、 「奉仕の理想像」で一つになった職業人の世界的団体をとおしての、国家間の理解や親善や平和の推進  

ロータリーの目標 (口語モード)
ロータリーの目標は、立派な事業を築く為の「理想的な奉仕のありかた」そして下記の各項を広く行きわたらせること
1、 奉仕するほど知り合いがふえるということ
2、 職業奉仕によって、職業倫理が高まり・仕事にふさわしい評価が生まれ・ロータリアン各自の職業がより立派なものになること
3、 ロータリアンはそれぞれで、プライベートでも・職場でも・社会でも、ロータリーで高めた自分を人の為に生かすこと
4、 「理想的な奉仕のありかた」をめざす職業人の仲間が、地球規模で理解しあい、仲良くして、世界平和を築くこと 
1月9日 
大貫 アイ 様
本日は、劇団シャラパンを主催されている大貫アイさんがお話して下さった。
 大貫さんは、来る2月2日(土)、あざみ野アートフォーラムにて、午後2時と6時の2回上演される、『空想音楽劇・真昼の銀河』の企画・演出家である。
 大貫さんは、もともと役者と、ITベンチャー経営者として仕事をされ、日夜コンピューターのWEB関係の仕事をされていたが、震災後、機械でなく、もっと「人の手」による仕事で「心のゆとりをもたらしたい」、と、劇団シャラパンを設立された。
この日は、上演に当たっての苦労話、表現するとはいかなることか、など、大変奥深いお話がたくさん聞けたが、中でも印象に残ったのは、例えば相手役に話しかける時の声の大きさについての話だ。
 ちょっと、相手を呼び止める場面の時、役者が客席を意識して、観客に聞こえるように、必要以上に声高に語りかけたとする。すると、それは、もはや真実ではなく、「偽り」である、と。なぜならば、普通に日常の中で相手に話しかける時に、その相手以外の人間に意識を拡散させながら目の前の相手に話しかけることなどあるはずがないからである。
 演劇では、常に「舞台」と「客席」が存在する。が、演技者は、あくまでも、その場面の状況として、「相手」に集中するべきであって、「客席」に向けて語りかけてはいけないのである。観客にこびることなく、あくまでも「真実を追及する演技」であるべきで、結果、ささやくような普通の声の呼びかけであっても、そこに「真実」があれば、観客はその演技に引き込まれ、自然と耳を澄ませて舞台に集中するのだ、と。
 当日は、「非・日常の空間」である「演劇」に入る前に、「現実」から「幻想」の世界への導入として、開演前30分のミニコンサートで、サックスアンサンブルFERIASの演奏も楽しめる。入場料も2000円と1000円の2種類で、音楽劇としては破格に安価なので、お知合い・ご近所の方たちにも是非お知らせして、「心のゆとり」を分けていただくために、力作「「真昼の銀河」を是非みんなで観に行きましょう!(文章作成・伊藤)
11月14日 会員卓話 
遠藤 ふき子 会員 
今日はインタビューについて、私が仕事を通じて体験したことを少しお話させていただきます。
どんな仕事も同じですが、他から見ると簡単そうに見えても実はその陰にはいろいろな工夫や苦労があります。
たとえば「アナウンサーならすぐに司会やインタビューができるでしょう」といわれて戸惑うことがあります。どんな小さな仕事でも、きちんと下準備をし、全体を把握していないとスムーズにはゆきません。
一口にインタビューといっても、いくつか種類があります。
たとえば、テーマにそって相手にわかりやすく解説してもらう
いわゆるハウツウもの。
一人の人にじっくり話を聞くインタビュー。あるいは舞台などで、短い時間にゲストを紹介するインタビュー。
どれも大切なことは、あらかじめ情報をしっかり集めてそれを頭に入れることです。自分にとってあまり興味のない場合でも、相手の情報や、あるいはテーマについてあらかじめ頭に入っていれば、あまり困ることはありません。
実は私はアナウンサーになった初めのころはインタビューが苦手でした。その頃は企画構成をするのはディレクター、実際にインタビューをするのはアナウンサーでした。
台本に書かれた順序にそって話をきくのですが、あれもこれも聞かなくてはとあせって、相手の話に耳を傾けるより、次の質問のきっかけを探してばかりでした。ですから面白いインタビューにはなりません。そのことに気が付いてからは、自分で興味を持ったテーマで企画をするように心がけました。
インタビューをされる側も、相手が自分に関心を持ってくれているとわかれば、一生懸命話してくれます。
インタビュアーとして大切なことは、まず相手に興味を持つこと。出来るだけ時間をかけて情報を頭に入れておくこと。
相手の得意な分野や好きなことについて知ることは大切ですが、苦手なことには触れないという気配りも重要です。
そしてそのうえで後はじっくり相手の話に耳を傾けることです。私はラジオ深夜便の中で「母を語る」というインタビュー17年続ける中で、このことをしみじみと実感しています。
10月31日 故郷と日本
グリアイシャム・アブラト さん(米山奨学生) 
9月12日 今、話題のアンチエイジングより≪「自分の年齢は自分で決める !」≫
小吹 優 様(横浜金沢みどりRC) 
・加齢に抵抗するという意味で「アンチエイジング」を医学的な見地から研究
・老化を予防し、健康で若々しく生きるための方法
・今日から、皆さんの年齢は「足し算」ではなく、「引き算」で考えましょう。

•老化は治療できる!
•自分の年齢は自分で決める!
•あなたは自分の年齢を何歳にしたいですか?
★それでは老化とはなんでしょうか。
「さびる」・・・食べ過ぎ、飲み過ぎ、タバコ、ストレス等で発生する活性化酸素により細胞が酸化反応(錆付き)を起こす事。
「しぼむ」・・・赤ちゃんの頃は体重のおよそ70%も占めていた体内の水分量が次第に少なくなり乾燥していくということ。
「風化する」・・精神的な弱体化です。加齢に伴い精神的にもろくなり、過去を振り返る後ろ向き思考になります。

・ 予防医学・・
1次予防⇒健康の保持・増進を目的「アンチエイジングドック」
 2次予防⇒病気を早期に発見し治療につなげる
「人間ドック・健康診断」
 3次予防⇒病気の悪化や合併症の併発を防ぐ

・ アンチエイジングドックの内容→超早期発見が出来る可能性があります。
○ 活性化酸素による酸化(錆付き)の程度とそれに対抗する抗酸化力
○ 各種ホルモン ・ 動脈硬化度(血管年齢)
○ 脳年齢
○ 体組成分析(筋肉・内臓脂肪・ミネラル・水分の量)
○ 骨密度 ・ 免疫機能
○ 代謝機能 ・ 血液サラサラ度
○ 尿や毛髪、爪のミネラル分析等

≪栄養・食事≫
 ・1日の摂取カロリーの目安≪カロリー控え目は
アンチエイジングの基本≫
=標準体重(身長m×身長m×22)×活動度に応じたカロリー量(寝たきり20Kcal
デスクワーク25Kcal・主婦30Kcal・肉体労働者40Kcal以上)
  例)小吹  1.76m×1.76m×22(標準体重
68.15)×25Kcal=1704摂取カロリー
・ ポリフェノールの効能

≪生活・運動≫
○有酸素運動 ○筋力トレーニング ○ストレッチ
・ 日常生活の運動の工夫「10か条」⇒家中 街中 無料のジム
○ 大股で歩く(1・2歩目は普通で3歩目に大股)
○ 速く歩く(普通のスピードに速歩を一定の間隔で入れる:インターバル速歩)
○ なるべく階段を使い、昇り降りする。(特に下りが効果的)
○ 電車やバスで座らない(15分以内なら座らないと決める)
○ 荷物は、たとえ軽くても腕を少し引き上げたり、前に出したりしてわざと重く持つ
○ いつでもどこでも「つま先立ち」、「スクワット」
○ 座っているときも筋トレ(左右の内ももを寄せて両脚を少し浮かす。電車やバスで)
○ 手や足の指のグーパー運動
○ 姿勢を正す
○ とにかく楽をしない、なるべく身体を動かす

「青春」(サミエル・ウルマンの詩)
青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失う時に初めて老いが来る。

人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる
希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。
9月5日 会員卓話
一樂 祥子 会員
 私は,東京の中野で生まれ育ちました.小学校の時から革靴を履いてバスに乗って,今は小金井に移ってしまいましたが池袋にあった東京学芸
大附属の豊島小学校に通っていました,ずいぶん教育熱心な親だったと思います.
大学のときに知り合った夫と卒業後すぐに結婚し,大学院にいるときに長男が生まれ,大学院を修了後次男が生まれました.元来怠け者の私はのんびり子供を相手しているうちに長女が生まれ,3人子育てをして暮らしていました. そんなあるとき,夫の教え子で県立高校の先生をしている人から「急に先生が辞めてしまって困っている, 誰か来てくれる人はいないか」と電話がありました.急な話で適当な人が見つからなかったのですが,その人が「先生の奥さんでもいいですよ」と言ったので結局私が行くことになりました.
 これが非常勤の始めです.それから,自分の母校でも非常勤を勤めたりしているうちに,今の桜美林高校で非常勤講師をするようになりました.当時は非常勤講師も求人難であったようです.
 今年度は,2年生と3年生を教えています.教科書を持ってきましたので,ご覧下さい.私達が高校生だった頃に比べて,カラフルだし,内容も丁寧になっています.むしろあの頃の参考書や問題集に近くなっているのではないでしょうか.昔は自分でノートにまとめたり表を作ったりして理解した事柄が,今は「まとめ」としてすでに表になって教科書に載っています.表は,「作りながら理解する」ものではなく,「覚える」ものになってきました.数学が「考えるもの」から「覚えるもの」に変質しつつあるような気がします.
 よく生徒が「こんなことをやって,何の役に立つの?」と聞きます.大体難しい単元を学んでいるときですが,基本的にこれからの人生に数学なんか必要ないと思っているようです.じゃあ,古典や歴史はどんな役に立つと思っているのかなぁと密かに意地悪く考えるのですが,たしかに,問題にある木の高さや,面積が人生にかかわるとは思えません.しかし,答えが出るまでの考え方,論理の積み重ねが大事なのであり,分かっていること分からないこと,使っていいこと使ってはいけないこと,必要なこと不要なことを振り分けて論理的に考えていくための練習なのだよと,答えを出すことばかりに気持ちが向いてしまう彼等を相手に孤立無援で奮闘する毎日です.
8月29日 インターアクトクラブ活動報告
クラーク記念国際高等学校横浜青葉キャンパス IAC会長・幹事
これから、横浜青葉キャンパスについて、そしてインターアクトクラブの活動について発表します。
まず、私たち「横浜青葉キャンパスについて少し紹介したいと思います。
横浜青葉キャンパスは平成23年度に開校したばかりの女子キャンパスです。
他のキャンパスにはない特徴的な取り組みとして、製菓実習調理実習、ヨガ、プレゼンテーション、ライフデザインセミナー、ピアアシスタントがあります。
製菓・調理実習は週に2回行っていて、今まで50回以上の実習がありました。
文化祭でもカップケーキとビスコッティを販売してたくさんの方に買っていただきました。


IAC会長 妹背 綾乃 さん
IAC幹事 浦田 実季 さん
最初はクッキーやスコーン、ピザなどを作ることだけでいっぱいいっぱいだった私たちですが、1年が終わる頃には、ハンバーガーやシュークリーム、ショートケーキ、イタリア料理の手打ちパスタやフランス料理の鶏のフリカッセというようなものまで作れるようになりました。
今後もこの実習でさらにレベルアップしつつ作ったお菓子を販売していく予定です。
後ほど説明しますが、この製菓販売をインターアクトクラブ東北支援の活動につなげていこうと考えています。
次はヨガについてです。
私たちは体育の変わりとしてヨガに取り組んでいます。精神統一をするための呼吸法やさまざまなポーズを練習してきました。体育祭では保護者の方とも一緒にヨガを楽しみました。
自分の体の声を聞き、自分と向き合うことのできるとても大切な授業のひとつです。

3つ目の特徴的な授業はプレゼンテーションです。
この授業では、クエストエデュケーションプログラムという教材を使って1年勉強してきました。
このプログラムは全国で1万人以上の高校生が参加しているもので、実際に私たちが森永製菓や日本経済新聞社、大和ハウスといった企業に所属し、与えられたミッションに挑戦していくものです。例えば大和ハウスのミッションは「日本の未来をここから作る 人が集い 喜び つながる 100年続く街づくりを提案せよ」というものでした。答えのないミッションに取り組んでいくことはとても大変でしたが、この授業でしか学ぶことのできない多くのことを学びました。
ちなみに大和ハウスチームは見事予選を突破し、全国大会に出場することができました。

次はライフデザインセミナーです。
このセミナーでは普段お話しを聞くことのできない貴重な方々に特別講演をしていただいています。
三浦雄一郎校長の息子さんでプロスキーヤーの三浦豪太さんや二代目引田天功のスタッフとして数々のイベントを手がけていらっしゃるプロマジシャンの菅原英基さん、アンチエイジングの第一人者で世界一受けたい授業などでも活躍されている白澤卓二先生などに講演していただき色々な方の人生について学び、自分の人生についても考えていくことのできる貴重なセミナーになっています。
3月には、1年のしめくくりとして三浦恵美里校長先生、豪太さん含め三浦ドルフィンズの方々と倉岳山登山に行ってきました。

最後にピアアシスタントです。
ピアアシスタントに取り組んでいるキャンパスはたくさんありますが、横浜青葉キャンパスの特徴はこの授業に全員が取り組んでいることです。
みんなで一生懸命とりくんだ結果ピアアシスタント基礎課程の資格を全員で取得することができました。
この1年ではピアアシスタントの授業の一環として小学校への読み聞かせ活動や学童保育でのボランティアなども行ってきました。今後も地域での読み聞かせ活動を引き続き行っていきます。

このような特徴的な授業に取り組んできた横浜青葉キャンパスですが、もう一つの新たな取り組みとして去年の11月にインターアクトクラブに加盟し、活動し始めました。
今回の震災ボランティア活動も、このインターアクトクラブの活動の一つとして取り組むことになりました。
そこでインターアクトクラブについて紹介したいと思います。

インターアクトクラブとは、奉仕と国際理解に貢献する活動を青少年に与えるために結成されるクラブです。
インターアクトクラブは支援や指導を与えるロータリークラブが提唱して結成されています。
このロータリークラブはクラブ奉仕、職業奉仕、社会奉仕、国際奉仕、新世代奉仕を主軸に活動しており、その中でも、新世代奉仕の枠にインターアクトクラブが含まれています。
インターアクトクラブ会員の構成は様々で、女子のみ、男子のみのクラブもあれば、男女混合からなるクラブもあり、その規模も大小さまざまです。
会員基盤は一つの学校から集められる場合もあれば、同じ地域の二つ以上の学校からなる場合もあります。
なんと!日本で最初のインターアクトクラブは1963年6月27日に創立した宮城県の仙台育英高校インターアクトクラブです!
インターアクトクラブでは、毎年少なくとも、2つの社会奉仕プロジェクトを行い、そのうち1つの国際理解と親善を推進するものとされています。
プロジェクトを通してインターアクターは地元社会や海外のクラブと友情のネットワークを築きます。奉仕活動を行うことで、次のような大切なことを学びます。
1つ目は 指導力と人間としての高潔さ
2つ目は 他社を助け、他者を尊重すること
3つ目は 個人の責任と懸命に努力することの価値
4つ目は 国際理解と親善を推進すること
さらに、インターアクトの奉仕プログラムを実施しながら、リーダーとして資質をみがき、実地の体験をすることで、他者へ奉仕することから生まれる満足を感学びます。
インターアクトクラブはロータリーの奉仕の中で最も急速に発展しているプログラムの1つであり、109余りの国や地域にある10700以上のクラブを擁します。
現在20万人近くの世界中の若者がインターアクトと関わりを持っています。

インターアクトクラブの後援をしているロータリークラブは世界初の奉仕クラブで、1905年にアメリカで結成され、こちらのクラブも世界中にとても多くの会員がいます。
小説家のトーマス・マーンや作曲家のジャン・ジベリウス、また映画にもなった鉄の女ことイギリスのマーガレット・サッチャー、日本では石田純一・東尾理子夫妻、韓国ではイ・ミョンパク大統領、またケンタッキーフライドチキンで知られているカーネル・サンダースもロータリアンの一人なのです。
その証拠としてカーネルおじさんのジャケットの襟にはロータリークラブの会員の証明であるバッヂがついているので今度是非ご覧下さい。

インターアクトクラブが行う活動には3種類あり、社会奉仕活動・国際理解・親睦活動に分けられます。
ここで私たちは、今までに取り組んできたインターアクトクラブの活動を紹介したいと思います。まず初めに社会奉仕活動です。

社会奉仕活動として地域の小学校や学童保育所で絵本の読み聞かせ活動を行い、学童保育所や青葉キャンパスでの勉強サポートや調理実習、パソコン講座を開催しました。
また被災地支援活動の一環として仙台キャンパスへの手作りクッキーをお届けする活動も行いました。

親睦活動ではロータリークラブ主催の年わすれ家族会にも出席し、ロータリーの方と交流したり、年次大会へ参加して他校のインターアクトとの活動報告やディスカッションを行ったりしました。
また、地域の小学校での夕涼み・盆踊り
花火大会に参加しホットドック販売の手伝いをしました。

国際理解として昨年末に横浜青葉キャンパスの代表2名が海外研修に参加し、タイ・プーケットへ行ってきました。
海外研修では、孤児院や日本人慰霊碑、ウミガメの保護施設やギボンリハビリセンターを訪れたり、ビーチクリーニングを行ったりして、自然保護の大切さと津波からの復興の筋道を学んできました。
震災から日が経つにつれ、だんだんとニュースや新聞での震災についての報道が減ってきてしまっていますが、
3月11日の東日本大震災のことを忘れてはいけない、その場限りで終わってしまうようなボランティアではいけないと感じ、横浜青葉キャンパスでは継続的に支援をしていきたいと思い、今何が出来るのかを一生懸命考えているところです。

これまでに紹介したタイ・プーケットへの 海外研修や、学童ボランティア以外でこれから力を入れていこうと考えている活動の一つに製菓販売があります。
3月に私たちは初めての製菓販売を行い、作ったお菓子全てを売り切ることが出来、52000円ほどの売上、37000円ほどの利益を得ることが出来ました。
今後も製菓の授業やゼミで作ったお菓子の販売を継続し、売上金を復興支援に繋げていく予定です。

最後に私たちが今後行っていく活動の予定を紹介します。
社会奉仕活動としては、
・ 小学校や学童保育所での読み聞かせ活動
・ 製菓販売の寄付活動
・ ペットボトル・プルタブ・テレホンカード・ベルマーク・書き損じハガキの回収や募金活動
・ 被災地支援活動
などを予定しています。

国際理解としては、
・ インターナショナルスクールとの交流
・ クラーク記念ヒマラヤ小学校の援助
インターナショナルスクールについては、他の国の人たちとの交流をはかり今後に活かしていく予定です。

親睦活動としては、
・ インターアクトクラブ他校との交流
・ 地区大会や年次大会への参加
・ 例会にてロータリアンの方々から卓話
・ を計画しています。

以上で横浜青葉キャンパスが取り組んでいるインターアクト活動についての発表を終わります。
8月8日 涌谷日本初産金の歴史 
森 俊彦 様
 私の出身地の東北の 涌谷町は、仙台の東北、約四十キロの地点に存在します。その涌谷町で有名なものをお話します。
(1) 仙台のお家騒動である寛文事件です。原田甲斐や政岡が主人公の山本周五郎の「樅の木は残った」にも書かれていますが、涌谷の殿様の伊達安芸宗重公が活躍します。
(2)その伊達安芸宗重公を祀っている涌谷神社(旧涌谷城址)には櫻が千本余りも有り、毎年四月のお花見が有名です。
(3)週刊朝日の元編集長として有名な扇谷正造さんが、涌谷町の出身です。
(4)日本で初めて金が採取された町として有名です。
 西暦七四九年、聖武天皇が奈良東大寺に大佛を建立された時、佛像の表面に塗る金箔が不足し、しかも日本では産出し無いと考えられて居た時に陸奥の守の百済王、敬福が、涌谷から黄金九百両を産出したことを都に早馬で報告しました。日本で初めて金が採れたこの事を、聖武天皇は非常にお慶びになり、年号を天平感宝と改め、敬福を一躍、七階級も昇進させるなどして、大祝賀会を開きました。涌谷では古くからこの産金の事が言い伝えられており、その上、奈良の昔に金が採れたという黄金山付近の小川から砂金が採れました。おじいさん達が、川砂を採って平らな皿の形をした器に入れ、小川の流れの中でその平らな皿の器を揺り動かしますと、砂金は重いので皿の下に沈むため、砂金が採取出来きるのです。今、七―八十歳くらいの人達が、子供の頃におじいさん達が砂金を採っていたことを見た人達が多いのです。しかし、昭和の始め頃までは、日本で初めて金が出たのは石巻だという説がありました。芭蕉が「奥の細道」行脚で、石巻に出て来たのは、石巻からの金産出説を信じたからだとも言われています。しかしそれは、芭蕉の俳句の友人である大淀三千風という人が石巻黄金伝説を唱えたことを、芭蕉が信用したからなのですが、芭蕉と同道した曽良の持っていた書物には、涌谷の初産金を記念して当時の涌谷神社が国司達の神社(式内社と言われていた)にされたことが書いてあります。
昭和十年に、東北大学理学部の渡辺万治郎教授が涌谷町に来られました。実は昭和十年十月には、一回に百ミリ以上の雨が三回も降り、黄金山でも山崩れが起きました。教授は、その山崩れで底から露出した岩石を見て、それから砂金が出て来たのだと想定されました。そして、砂金を含むこの岩石の発生の源は遠く三陸の宮古付近で、数千万年前に起こった造山運動により涌谷付近に運ばれ、その後でも隆起と沈降を繰り返して出来た事を説明されました。ですから、涌谷の砂金は長い時間かかって生成したので、①角は丸味を帯びて、②不純物が洗い流され、金の純度が高いのが特徴であるとされています。
 さて、砂金を採取する方法は、小川の流域の砂層を掘り下げ、それを作業場に運んで、採取作業(川水によるより分け)をするのです。
 現在でも、黄金山付近には、この土砂を掘り取った跡が残っています。直径も深さも二メートルくらいで、黄金山全体として二百五十くらいは在るでしょう。だから、全体的に見ると当時の砂金が九百両よりももっと多くなるでしょう。この掘り跡は、「みよし堀跡」と言われています。涌谷は、日本初産金跡地として、国指定の文化財とされて居ります。
 なお、黄金山神社には、明治四十年に大槻文彦博士が續日本記に書かれた、砂金産出地小田郡は涌谷だとされた文章の碑文と、産金を祝って大伴家持が万葉集に詠った歌碑が、昭和二十九年に建立されて居りますが、万葉集に詠まれた場所として、涌谷は日本で最北ですから、「万葉北限の地」と呼ばれて居ります。
7月25日 私の好きなモノ、好きなコト
石川 俊 会員
 卓話の機会を与えていただき感謝いたします。今回は自己紹介を主としてお話しをしたいと思います。現在クラブの会員の約半数が新しい会員ですので、私の事を知っていただければ親睦に繋がるかと思います。
 さて、私は1951年10月に長崎県の鹿町に生まれました。両親とも関東の出で父の仕事の関係(炭鉱の技術者)で九州に赴任し兄弟(兄2人、姉1人)が生まれました。皆さんにご賞味いただいた、九十九島せんぺいは好物の一つです。また怪獣映画「ラドン」の撮影場所でおぼろげながら撮影の記憶があります。1956年12月に福岡県の柳川に移りました。父の仕事が有明海の海底炭田の開発に携わることになったからです。1970年3月高校卒業まで柳川に居ました。
 柳川は水郷で舟下り、北原白秋の生家などの観光、うなぎのせいろう蒸し等で有名です。毎年5月3日~5日水天宮のお祭りは大好きなお祭りで、そのお囃子は独特な旋律だそうです。高校では地学部天文班に属して毎日の太陽の黒点観測、天体(流星、星座、月面)の写真撮影を行い楽しい思い出です。1970年、父の仕事が本社勤務になり上京しました。翌年1971年(S46)獣医科大学に入学し、当時大学は4年制でした。修士課程に進学し「ビーグル犬のレントゲンによる骨格の成長の研究」を行って卒業しました。

 1990年(H2)現在の所に動物病院を開業しました。開業当初殺風景でしたので花を植え、その成長を観察するのが楽しくなりました。ある時突然に着物を着たくなりました。パーティーや会合等でよく着ますが、最近では茶事で袴を穿いています。学生の頃から鉄道(ディーゼル車)に乗車することが好きで、最近の自然災害での鉄道被害を憂いています。では、一番好きな事は何かと考えた時、今の仕事だと思います。仕事で辛い事もありますが、好きなことを生業にして幸せに思います。また、ロータリークラブの活動に参加させていただき楽しい時間を過ごさせていただきました。これからも宜しくお願いします。
7月11日 時代の流れに乗れない仕事
伊藤 正敏 様
 調律師・ドイツピアノマイスター
 本日は、このような場におよびいただき、大変光栄です。ありがとうございます。「調律師」という職業の名前は、今日ではほとんどの人が耳にしたことがあるようになりました。しかしながら、それはここ数十年のことです。明治に入り、日本に西洋音楽が取り入れられるようになってから、徐々にピアノが正規に輸入されるようになり、明治から戦後までピアノは貴重なもので、昭和初期では家一軒と同じくらいの価格でほんとうに限られた人しか持っていませんでした。よって、「調律師」という職業も、人々にあまり知られるものではありませんでした。
 なぜ私がこの職業を選んだか、というと、小さいころより楽器、音楽が得意であったからです。学校時代も常に音楽と関わっていたため、高校の音楽教師の勧めによって、ピアノ調律、修理の工房に弟子入りすることを決意したのです。
 「もう弟子は取らない」と断られたのを何度も頼み込んで、2年間の修行を終え東京のピアノ会社に就職しました。毎日調律の仕事をする中で、「この仕事こそ自らの天職となりうるのでは」と実感し、ピアノと毎日接することに喜びを感じる日々だったことを覚えています。しかしもっと勉強したいと思い、友人からのつてを手掛かりに、ドイツに渡航しました。

 ドイツはピアノ文化が発展してきた中心的な国であり、今日においてもその技術力や教育は根強く受け継がれていると感じました。そこで数年間仕事をし、5年目に「マイスター試験」にチャレンジすべく仕事を止め、「ドイツ国立マイスター学校」に入学しました。
 ドイツの「マイスター制度」は日本にはありません。「マイスター」という言葉を、多くの人が聞いたことがあると思いますが、辞書を引くと「親方」とか「名人」とかでてきます。しかし、その本質はほとんどの方がご存じないと思います。本来「マイスター制度」は、ドイツの手工業者の最高峰を育てる制度です。「マイスター」は、製品の開発者や管理者であると共に教育者でもあります。
 「マイスター学校」での学科は多岐に渡り、「力学」「素材学」「設計」などの専門分野以外にも、「法律」「教育学」「経営学」など多くの事を勉強しなければなりません。そして学校卒業後に、11教科すべての国家試験に合格しなければ、「マイスター」の称号は与えられません。
 入学時に、その分厚い教科書を見た時には「これは無理だ、止めよう」と思ったくらい大変な量の科目でした。まあせっかく申し込んだので、入学して勉強を始めましたが、人の数倍勉強しなければついていけず、生涯で一番勉強した、と、言えます。そしてすべての試験に受かり、「マイスター」の称号をもらえたことは、今をもっても、なぜだかわかりません。

 ドイツでは必要以上に値段を高くしたり、値引きをしたりしません。「どれだけの製品で、どれだけ仕事をしたので、いくらです」と、その製品の価格がいくらか明快にしています。
 日本に帰国し店を始めて25年になりますが、ある時気が付いたことがあります。「熱心に、いい仕事を誠実にするほど、お金にならない」ということ。これはつまり、「良い材料」を使い、「時間をたっぷりかけ」て、「丁寧な仕事」をするとコストがかかる、という当然の事なのですが、価格競争が激しいこの社会においては、「安い材料」で「ある程度手を抜いて」仕事をした方が、安くたくさんこなせて「お金になる」という矛盾があります。私は通常1時間半から2時間かけて調律しますが、ピアノがものすごく売れた時代には、2-30分で調律して1日に7軒も8軒も調律していた人もいました。しかしながら、「良い仕事をする」、ということにこだわりを持ち、今日、明日の利益だけを考えず、誠実に仕事をしてゆけば「信用」を得られます。そして、お客様の満足度を高めることによって、お客様から他の方を紹介をしていただくことも多く、長きに渡って仕事を得られることがあり、そのような信念で仕事をしてきた今、決してこの方針は間違ってはいなかったと確信しています。

 ピアノは歴史的に天然素材でできています。大半の材料は木材で、弦をたたくハンマーは良質な羊の毛(フェルト、今は酸性雨の影響でよい毛が取れなくなっています)、ハンマーを押し飛ばす装置である部品は、鹿革でなければいけません。このITやデジタルが主流になった社会において、羊や鹿がいなければ、ピアノは造れないのです。そして楽器の性質や芸術性からも、オートメーション化には限界があり、よい楽器を作るために熟練された職人の腕も必要です。したがって、この職業は現代の「新しいものをどんどん開発」し、「最新の技術や素材を取り入れ世の中に発信していき」、「新しい社会をリード」していく、というような「イノヴェーション中心」の社会に、全く『ついて行けない』仕事なのです。いくら電気製品や自動車が新しいものを開発し世の中に普及しようとも、100年前に完成してしまったピアノは、改良し、新しいものにしてしまった段階で、既にピアノではなくなるのです。
 現代に、このような感性と技術を要し、しかも天然素材を利用したものを一生懸命扱っている仕事があっても、よいではないですか。このような感覚的な工業が、絶えてしまうことなく受け継がれていくことこそ大切だ、と信じています。
 これからも、更に「時代に左右されずに同じことを続ける『がんこ爺』になること」を目指して頑張ることを、ここに宣言して私のお話を終わらせていただくことにいたします。ありがとうございました。
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