横浜アザミロータリークラブ
横浜あざみロータリークラブ/YOKOHAMA AZAMI ROTARY CLUB ROTARY INTERNATIONAL
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2008-2009 |2010-2011 2011-2012 2012-2013 2013-14
 
2013~2014年度・卓話
例会日 タイトル 卓話者
     
 3月26日  天中の方舟ーそらのはこぶねーLIVEをもって  内海 治夫 様
 2月19日 南アフリカ学習支援プロジェクト ウーリッヒ・クルツ 様(新横浜RC) 
 1月8日 エネルギッシュボディーについて  小出 安芸子 様
 11月20日 土木女性技術者としてのブラジルでのGSE研修  鈴木 三馨 様(2009-10年度GSE派遣団員) 
11月13日 ネパールの小学校の子どもたちへ給食支援  エソダ・バスネット 様(米山学友会長) 
10月2日 内モンゴルの所属に関して  其 其格 様(米山奨学生)
7月24日 田中 ソロウェイ 明美 様
7月10日 薬膳な養生 瀧本 靖子 様
 
 
3月26日 天中の方舟ーそらのはこぶねーLIVEをもって
内海 治夫 様

地元文化を紡いでいくための“語り部"を育て発展させるには..

親から子へ遥か古から人の営みは何代も続き今が在る
その営みの中から今も伝わって残る伝説

口から口へと伝わって来た伝説の中に
人々の心が宿る

その心を音楽と芝居で綴った世界音楽と芝居の語り部たちが綴るライブそれが天中の方舟-そらのはこぶねーなのです

プロフィール
日本大学芸術部音楽科(作曲専攻)に在籍し、作曲を村田英夫・故柳沢剛・柳寛の諸氏に、アノを村上隆・故松谷翠の両氏に師事する卒業後公立中学校教諭を年間勤める
退職後、作・編曲を中心に吹奏楽や(ジュニア)オーケストラ並びに合唱指揮・指導等も行な又アンサンブルや器楽・合唱等の伴奏も行ない、オールラウンドに活動できる“”として活躍中
現在合唱や吹奏楽・オーケストラ作編曲の傍ら、「内海音楽企画」と題して“日本文化"をえながらの演奏企画や作品の創作も行なっている又、自制作映画(映像)のサトラ楽やヴォイス(ラジオ)ドラマ・ミュージカル等の音楽付けも行ない、ジャンルにこだわりの無い“音楽クリエーター"としての活動も展開中
な作曲活動においては、映像的(ヴィジュアノレ的)音楽の創作活動並びに現を得としている
Is.Field'7〆ポポ:送局J:!Ji!fi3{g-
Webラジオ「え中の方舟J(そらのはこぶね)/内海音楽企画制作
日米メディア協会(JAMA)メンバー
日本音楽著作権協会(JASRAC]準会員

2月19日 南アフリカの学習支援プロジェクト 
ウーリッヒ・クルツ 様(新横浜RC)

1月8日 エネルギッシュボディーについて
小出 安芸子 様
初めて御目に掛かる皆様、こんにちは。小出安芸子と申します。そして20年ぶりの皆様、お久しぶりです。横浜あざみロータリークラブで、こうして皆様の前でお話をさせて頂くのは、ライラの報告をした20年も前のことだと、先程思い出しまして、私も驚いております。
あの頃、私はまだ鍼灸の学校に通う学生でしたが、お陰様で無事卒業し、今では鍼、灸、按摩指圧マッサージ師の国家資格を持ち、更にイギリスのカラーケアシステム、オーラソーマのプラクティショナーとして約18年、様々な治療院やサロンで働いて参りました。更に2010年、アメリカのBBSHというマイアミの単科大学で4年間の課程を修了し、今ではBHSプラクティショナーとして、BHSヒーリングというものも提供できるようになり、独立して個人で仕事をしております。
治療、というよりは、ベストパフォーマンスの為の身体と心のケア、ということで、プロフェッショナルやアマチュアのパフォーマーの方々や、同業者の方々に多く御利用頂いております。
・エネルギーボディについて
今日は「何か為になる話を」という御依頼でしたので、エネルギーボディについてお話をすることにいたします。エネルギーボディというのは、所謂「オーラ」ですとか、「気」と呼ばれるもののことですが、怪しいモノというよりは、日本人の皆様にとっては普段から馴染み深いものです。
例えば、「あの人、何だか影があるわね、暗いわ。」とか、「話を聞いて貰って気が楽になったわ。目の前が明るくなった感じ!」などと私達は普通に会話をしています。あれは実際エネルギーボディの話をしているのです。
・そもそもエネルギーボディに興味を持ったわけ
私は元々、大学時代に 少林寺拳法部に所属しておりましたので、いわゆる気ですとか、間合いに関しての会話には馴染みがありました。鍼灸師も東洋医学概論で気のことを扱いますし、別にオカルトに興味があったというわけではありませんでした。
ただ、実は私自身、大学卒業後に酷い交通事故に遭いまして、身体を悪くし、不思議なモノが見えるようになったのと、普通の医師の治療や物理的な治療の限界を感じ、鍼灸師時代に自らの身体を使って様々なことを試したり、勉強をしているうちに、エネルギーボディに対するより深い理解を得たくなったのです。そして自分が見たり感じたりしていることが書いてあるような本を探しては読みあさるようになりました。
鍼の学校に通いながら自分の身体を学校の先生に治療して頂き、ある程度は良くはなったものの、原因不明の症状は全て改善されたわけではありませんでした。

・お客様から紹介されたオーラソーマ
仕事をするようになった一年目、ある時マッサージのお客様に、「あなたのマッサージは、チャクラに働きかけるようなところがあるから、オーラソーマを勉強してみるといいわよ。」と言われ、オーラソーマの勉強を始めました。
チャクラというのは、ヨガをなさっている方はご存知でしょうが、身体の中心に存在する大きなツボの一連のようなものです。
オーラソーマというのは、様々な色のオイルが入った100本以上のボトルを使ったイギリスのカラーケアシステムで、人のオーラが見えるという人が作ったものです。オーラが見えなくても、そのオイルを使って、その人のエネルギーの使い方等が理解できるというとても便利なもので、更にその製品のオイルなどを身体に使うこともできます。
私自身、そのオイルによって鍼治療では治らなかった症状が改善されたという体験を得ました。

・鍼灸按摩マッサージ指圧の限界とオーラソーマの効用
お客様の中には、病院へ行っても原因不明で、長いことマッサージや鍼に通っていても、全く改善されない症状を持っていらっしゃる方々がいらっしゃいます。そういう方にオーラソーマを試して頂くことで、症状が改善されるという体験が仕事をしている中で増えて参りました。
例えば一つの例を上げると、七年間の左側の肩こりに悩まされていたお客様。
どんなにマッサージしてもその時しか楽にならない、と仰るので、「騙されたと思って、このボトルを4本選んで頂けますか?」と選んで頂いたものは、「報われない愛」というキーワードのボトル選択でした。
なので、詳しくそのことについてお話を聞くと、7年前に奥様の浮気が原因で離婚なさったと。
そして症状は肩なのですが、扱うべきエネルギーボディは何故か腰。
そこをエネルギー的に扱うことで一週間で肩の痛みが全く無くなったということがありました。
ただ、オーラソーマではオカルト的、心理的な要因を扱うことが多く、あまり詳しくエネルギーボディシステムについて語られないので、私はそこについて現代的で身体に応用できるように詳しく教えているアメリカのBBSHという学校で勉強することにしました。

・見えることはポイントではない。エネルギーシステムを知って扱えることこそ重要。
本日ここでは、そのエネルギーボディについて解剖学的に詳しく語るということはしませんが、エネルギーが見えることは、大したポイントではありません。しかしながら、皆様が理解なさると役に立つことがあるので、それを今日は皆様にお持ち帰りいただくつもりです。
そして皆様にもエネルギーボディやそのシステムを体験できる方法を幾つか愉しんでいただこうかと思います。

・エクササイズ
• オーラソーマのポマンダーマッサージ    
これによって、触覚でもエネルギーボディの存在感を味わっていただきました。
• ブレスワーク               
これによって、ネガティブなエネルギーを吐き出す時の体験を味わっていただきました。
• 目を閉じて可愛い、大好きなもの等、自分を幸せにするものを思い浮かべてみる      
これによって先ほどとは別の感覚が全身に感じられたでしょうか。
全く体験できなかったとしても、これは訓練次第で誰でも掴めるようになりますので、がっかりなさらないで下さい。
このエクササイズで、感じて頂きたかったことは、
「ご自分が幸せに感じることに囲まれている、ということは、エネルギーボディの浄化になる」ということです。
ですから、例えば、ご自身の環境、寝室や居間などは御自分の好みのインテリアにする等、そんな簡単なこともエネルギーボディを健康にしますし、「笑う門には福来たる」という諺も、全く本当のことです。
実際、笑うことで免疫力が活性化されるという医学的な研究発表もあります。

・終わりに
心と身体は密接に結び付いています。
本日皆様に体験して頂いた、BHSにおいて第二、第四ボディと呼ばれる場所のオーラは、気持ち一つであっという間に変わります。
御自身が幸せな気持ちでいることは、その場にいる他の方々のエネルギーにも影響を与え、浄化にもなり得るのです。
本日は、それだけでも知っていただき皆様の生活の中で応用して頂ければと思い、お話をさせて頂きました。御清聴ありがとうございました。
11月20日 土木女性技術者としてのブラジルでのGSE研修
鈴木 三馨 様(2009-2010年度 GSE派遣団員)
1.はじめに
 大成建設技術センター土木技術研究所の鈴木三馨です。2009-2010年度、4月末から5月末までの約1ヶ月間、2590地区のGSE派遣団員として4540地区のブラジルサンパウロ郊外のリベロンプレート市周辺(図-1)に行く機会を得ました。今回、GSEの帰国報告をさせていただきます。
2.国際ロータリー4540地区の概要
 リベロンプレート市は、サンパウロ市から北西に約300kmに位置する内陸部の人口60万人程度の都市です。都市部の周りにはサトウキビ畑が広がり、30箇所以上のバイオマスエタノール工場(図-2)が点在しています。
ブラジルでは石油ショックのあった70年代からバイオマスエタノールの研究が始められ、今では世界でも主要のバイオマスエタノール生産国です。ブラジルの車はエタノールフレックス燃料車となっていて、ほとんどのガソリンスタンドでガソリンと同様にバイオマスエタノールも給油をすることができます。

3.職業研修
職業研修では、サンカルロス市にある国立大学とサンパウロ州立大学へ訪問しました。
国立大学では、コンクリート研究室(図-3)に訪問しました。
ブラジルは日本とは異なり地震がほとんどないので、耐震設計をする必要がなく、マンションの壁とスラブは穴あきレンガをモルタルで積み重ねています(図-4)。そのため、Masonry(レンガ積み)の研究もコンクリート研究室での重要なテーマの一つです。
州立大学では、化学科、土木工学科へ訪問しました。
化学科では、カシャッサと呼ばれるサトウキビを原料とするブラジル原産の蒸留酒の研究室を訪問しました。ラム酒もサトウキビを原料とする蒸留酒ですが、ブラジルではカシャッサはラム酒と異なるブラジル特有のものとしています。これには、微生物が異なることや樽の大きさと種類が異なることなどが理由のようであり、これを化学分析等によって分類していました。
土木工学科では、研究対象も様々で、コンクリート、アスファルト、地盤、木材、テキスタイル(布)等があります。

4.ブラジルの住宅事情
 ブラジルの分譲住宅では、防犯のため3m近いゲートで囲いその中に戸建て住宅を分譲するスタイルが良く見られます。私は滞在中に6家族の家にホームステイをしましたが、その内、2家族がこのタイプの住宅でした。特にその内の1つには、ポロの競技場やテニスコートなどの施設もあり、ブラジル人の優雅な生活に驚きました。

5.おわりに
 ブラジルのロータリーの例会は夜20時から始まることが多いのですが、20時ぴったりに例会が始まることはほとんどなく、21時ごろに始まり23時ごろに終わることが多くありました。そこでもブラジルの大らかな国民性を垣間見ることができました。また、GSE研修を通して経済成長が加速するブラジルの活力、ブラジルの持つ潜在力を目の当たりにしました。
 最後に、ブラジル滞在の機会を下さった日本とブラジルの国際ロータリーの皆様、快く送り出してくれた大成建設の皆様、そして家族に深く感謝をいたします

 
図-1 国際ロータリー4540地区
 
図-2 バイオマスエタノール工場
 
図-3 コンクリート研究室
 

図-4 ブラジルの高層建築物

 
11月13日 ネパールの小学校の子どもたちへ給食支援
エソダ バスネット 様 (米山学友会長)

10月2日 内モンゴルの所属に関して
其 其格 様(米山奨学生)
日本へ来てから、「私はモンゴル人です。」と自己紹介すると、「朝青竜や白鴎の国ですね」と言われます。国籍は中国です。そうすると今度は、「中国にどうしてモンゴル人がいるんですか?」と聞かれます。「モンゴルは外モンゴルと内モンゴルに分かれています」と説明すると、何が何やら分からない顔をされます。そうなんです、モンゴルの歴史をみると複雑なんです。日本の国のように1500年以上も連続している国とは違います。それで今日はモンゴルの歴史などについて少しお話しして、モンゴルの半分がなぜ中国に属するようになったかをお話ししたいと思います。
 実は日本とモンゴルは非常に深い関係にあります。最近のテレビ番組を見ていたら、「満洲へ花嫁を送れ」とか「こんなところに日本人がいる」とかの番組がありました。満洲国は日本が作った国と言ってもいいと思います。モンゴルの東半分はその満州国に所属されたのです。私の故郷の赤峰も満洲の一部でした。北はロシア国境近くの満州里からハイラル、ノモンハン近く、通遼までモンゴルでありながら満洲国の一部とされました。そのため日本のものを持っているモンゴル人はたくさんいましたが、文化大革命でほとんどを持っていかれました。今でも隠れて日本刀を持っている人がいます。
 話の本題に入る前に、私の知り合いの文化人類学者の話を受け売りしますと、赤ちゃんのおしりに蒙古斑と言われるあざがあります。あれはモンゴル族、朝鮮族、日本人、アメリカインディアンだけに現れるのだそうです。漢民族やアジ人アや白人には出ないそうです。また言語ですが、モンゴル語の語順と朝鮮語の語順と日本語の語順とアメリカインディアン語の語順(ごじゅん)は全く同だそうです。
 さて騎馬(きば)民族と言われたモンゴル人は馬で移動する民族です。では食糧はどのようにして手に入れたか、というと主に野生の動物を狩り(かり)して食べていたのです。そのうちに人口が増えて野生(やせい)動物に頼れなく(たよれなく)なると、家畜を飼って(かって)育てることになります。遊牧生活の始まりです。チンギスハーンの時代は家畜の時代に入ろうとしていた時代です。日本では元寇(げんこう)の役(やく)といって鎌倉(かまくら)時代に当たります。
  本題に入りますが、遊牧生活をしていますと、土地所有の考えは出てきません。先ほどの文化人類学者の話ですと、アメリカインディアンには空気の売り買いができないように、土地も売り買いできるものではないと思っていたそうです。そのため白人にすべての土地をだまされるようにして取られてしまったそうです。遊牧を主として生活していたモンゴル人も厳格な意味で土地所有の考えを持っていませんでした。農耕民族とは土地感覚が全く違います。
 モンゴルの時代は問題ありませんが、別紙の地図のように、チンギスハーンの最盛期にはモンゴル支配の領土はモスクワよりも西、ローマ近くにまで及びました。南はインド国境まで、ビルマやシンガポールまでを含みました。その流れで日本へも来たのでしょうか。支配力が及んでいることは必ずしもその全ての土地がモンゴルの土地になったという事ではありません。
 ここで簡単に中国の歴史を見てみますと、モンゴル政権の後は明の時代です。約300年続きます。その後は清朝で約260年続きます。孫文による辛亥革命によって、清朝は倒れます。その後は皇帝制度がなくなり共和制の政治が始まります。日本では逆に明治維新によって天皇制の政治が復活しますね。 
モンゴル支配の範囲が広すぎました。モンゴル政権の力が衰えると、次に明の時代になります。しかし土地問題だけを考えるとモンゴルの土地は相変わらずモンゴル族が利用する土地でした。そのためにモンゴル族が奴隷にされたり、追い出されて生活する場所がないという事はありませんでした。モンゴルは合う意味では独立したのでした。
 次に満州族を中心とした清朝の政権が樹立されます。これも1900年代始めの辛亥革命まで約260年間続きますが、現在の中国とモンゴルの関係はこのあたりから始まります。現在の内モンゴルが中国に編入させられるのは清朝時代からに関係してきます。清朝は主に満州族によって樹立された政権です。言語は満州語です。漢民族ではありません。清朝はモンゴル族の力を恐れて、歴代皇帝の半分以上の皇帝はモンゴル族の女性から奥さんを迎えています。姻戚関係を結んでモンゴル族の反乱を抑えていました。満洲語の文字はモンゴル語の文字をそのまま使いました。私にも読むことができますが、意味は全く分かりません。ローマ字で日本語を書くのと同じです。モンゴル文字はウイグル文字から借りたものです。清朝ですから漢字が使われていたと思われていますが、実はそうではないのです。多くの漢民族を支配しましたので漢字はもちろん使いました。歴代皇帝の名前も漢字であらわされています。清朝皇帝の苗字は愛新覚羅(アイシンカクラ)ですが、これは満州語です。「金色の家族」に近い意味です。清朝時代には、まだまだモンゴル民族は分断されることはありませんでした

 2 第一回の統合失敗
辛亥革命によって清朝が倒れた1911年は、モンゴル諸族がいまや300年にわたる異民族の支配を脱して、分断された同胞(どうほう)諸族を統一する、かつてない好機であるとする認識は、部族や階級のちがいを超えて共通のものになっていた。いわば、この民族的宿願が強く光(ひかり)を照し出した(あきらしだした)とき、クーロンに集まった外モンゴル・ハルハ諸州の王侯たちは、ただちに独立の宣言、清朝の官吏追放、新政府樹立の点で一致し、1911年12月1日に、この宣言は内外に公布された。かれらはいち早く、内モンゴルのジェリム、ジョソット、ジョー・ウダ、ジリンゴル、ウラーン・チャブ、イフ・ジョーなど、内モンゴル六盟をはじめ、フフホトのトゥメト東西両翼、新旧バルガ、ダリガンガ、アラシャン、ウーレド、イフーミンガンなど計49旗に使者を送り、独立宣言の旨を通達した 。外モンゴルが独立を宣言した後、外モンゴル以外のモンゴル人も独立への願望を激しくゆさぶられた。たとえば、ホロンバイルの地からダムディンスレン、ハタンバートル、 マクサルジャブなどは清朝と漢人勢力の一掃とモンゴル民族の統一のために奮戦した。しかしながら、帝政ロシアの陰謀で、この戦争は失敗に終わってしまう。このような状況のなか,ボグド_ハーン政権は,孤立し、日本とヨーロッパ諸国との交渉もこころみたが,唯一のうしろ楯と思われたロシアからさえ支持をえられず,交渉は阻止され,また内モンゴルを統合するための遠征軍の撤退をもとめられた。1915年モンゴルの国境にあるキャフタで露・蒙・中三国の協定で、内モンゴルは中華民国に属した。

 3 第二回の統合失
 やがて 1914年、「第1次世界大戦」 が勃発。さらに1917年、ロシア革命まで発生し、帝政ロシアが崩壊すると、モンゴル民族の独立に有利な情勢となった。ソ連の支援を受けて、1921年、モンゴル人民共和国が成立した。ところで、当時の内モンゴルはどのような状況にあったか?中華民国が内モンゴルを完全に支配した状態でもなく、各地の軍閥の手が入っていた状態であった。ちなみに、1931-1933年、満州事変から満州国を成立により、内モンゴル東部地域では日本の統治に支配された。西部では、チャハル部出身の徳王によって1939年張家口(ちょうかこう)に蒙古連合自治政府が樹立された。しかし、1939年日本の侵攻を受けて、ハルハ河の戦い(ノモンハン事件)にソ連と協力して国境を守ったことは国内を引き締める効果(こうか)があり、ソ連への信頼を強めた。しかし1945年ソビエト軍の侵攻により満州国が実質的に崩壊し、『蒙古連合自治政府』はモンゴル人民共和国に統合を求めたが拒否され、崩壊したのである。そして、1945年8月に日本軍が連合軍に降伏すると、内モンゴルでは一時的に権力の空白(くうはく)状態が生まれた。
 特に満州国統治下にあった東部内モンゴルでは、共産党と国民党もまだ支配を掌握していなかった。札奇斯欽によれば、ソ連軍と共に内モンゴルに侵攻したモンゴル人民共和国軍は「内外の兄弟の統一国家を建設」することをスローガンとして内モンゴル人民に呼び掛け、内モンゴル人民も「弟が兄を迎えるような気持ちで外モンゴル軍を歓迎」したという。1945年、「王爺廟蜂起」が起こり、「内モンゴル人民解放宣言」を発し、1946年、ゲゲン・スムで「東蒙古人民代表会議」が開催され、「東蒙古人民自治政府」と「東蒙古人民自治軍」結成が決議された。モンゴル人民共和国に統合を申し出て断られる(ことわられる)と、国民党や共産党系の「内蒙古自治運動連合会」と接触(せっしょく)した。さらに、モンゴルの西北(せいほく)隅(すみ)にあるタンヌ・トゥバ人民共和国の初期の革命指導者たちは、モンゴル人民共和国に合併することを望み、伝統的にモンゴルの地とみなしてきたウリヤンハイ(トゥバ)をモンゴルに返還するよう、ソビェト・ロシア当局に繰り返し(くりかえし)要求した。しかし、トゥバの独立はそのまま維持され、第二次大戦末期にあたる1944年には、「申請によって」ソ連に吸収(きゅうしゅう)された経緯(けいい)がある。
 そして、1947年4月3日、「内蒙人民代表大会」が開催され、27日に「内蒙古人民代表会議宣言」と「内蒙古自治政府施政綱領」、「内蒙古自治政府暫行(ざんぎょう)組織大綱」が承認された。内蒙古自治政府が「孫中山の主張と政治協商会議の精神」に依拠(いきょ)した「高度区域自治の地方民主聯合政府」であって「独立自治政府」でないことが宣言に明記(めいき)された。土地所有の保障、人民経済の建設、民政改善(かいぜん)、民族の平等自治や信教の自由など17項目を施政要項に掲げ、「中国革命運動の一部」となす方針をとった 。少数民族問題に対する中国共産党の方針は、当初は、民族の自決権、分離権を基本的に認める立場から提起され、政策決定された。その後、内モンゴルは中華人民共和国への帰属や自主独立自治区として、現在の内モンゴル自治区の始めとなった
7月24日 
田中 ソロウェイ 明美  様(リッチモンドRC)

7月10日 薬膳な養生
瀧本 靖子 様
☆1薬膳とはなんでしょう。
薬膳とは、中国医学の理論に基づいた食事のことを言います。
未病を改善するための“積極的な食養生”“病気にならないための食養生”であり、病気の人にも使える養生方法です。
<薬膳を用いた養生具体例>
気・血・津液と五臓のバランス

☆2例年より15日も早く梅雨明けしてすでに猛暑が続いている2013年の夏!
気温が高く、暑さによる疲労感、無気力、汗のかきすぎによる肌の乾燥や脱水、老化が現れやすい今年の夏を、ばてないように、安全に過ごすにはどんな食事がいいでしょう。
気温が上がることに伴う体温の上昇を防ぐために発汗して体温調節をします。
その結果、汗として水分が失われ、喉が乾くので水分補給をする。
この繰り返しによって体温の電解質バランスが崩れると、体がだるい、気力が湧かないなどの夏ばて症状がでます。
また、冷たいモノ、水分の取りすぎで胃腸障害が起こりやすいのも夏の特徴です。
中医学では、夏ばてを「汗と一緒に大切な「気」が流れ出てしまい脱水および、やる気が湧かない、だるいなどの症状がでること」と捉えます。

☆チェック
自覚症状として夏ばてがない人、自分だけは大丈夫と思っている人もいます。
セルフチェックをして、ひとつでも当てはまる方は気をつけましょう。
1)だらだらと汗をよくかく
2)体がだるい
3)夏に体調を崩しやすい
4)カゼをひきやすい
5)暑さで食欲がない
6)ついつい、冷たいモノ、口当たりのよいサラダばかり食べてしまう
7)炎天下にいることが多い。健康のために毎日散歩などしている
8)お肌の乾燥が目立つようになった
9)動かなくても疲れる
10)やる気がでない

☆暑さを体の外に出す効果のある食材、消化を高める食材、余分な水分を排出する食材などを積極的に摂りましょう。
体の熱を取る食材
やる気の出る食材、気力を補う食材
汗で失った体液を補い肌の乾燥を防ぐ食材

  本日のお茶  五味子と棗のお茶

作り方:五味子、棗は各3g。ポットに入れてお湯を注ぐ 

テキストの無断コピー・転写を禁じます。レシピは心味に帰属します

 【活動内容】
栄養学と薬膳を融合し、体・心・医学・料理をつなげて現代人の生活スタイルや体質にぴったりあうように理論と料理の両面から指導する、独自のスタイルを持つ。
手軽で洗い物が出ない、実用的なレシピ開発に定評があり、健康な食事のついての基礎から、妊娠しやすくなるレシピ、病態ごとのレシピなどを提案。
2006年より「薬膳教室心味」を主宰。毎月10種類近いテーマの講座を開催し、約200名の受講生が参加。
薬膳の世界を広めるため、ワイン、チーズと薬膳料理とのマリアージュも提案している。

【略歴】
実践女子大学家政学部食物学科管理栄養士専攻卒業後、管理栄養士として病院に勤務後、老人福祉施設で管理栄養士として高齢者の栄養管理をする。
その頃、体調不良を薬膳で治した経験から、中医学のおもしろさに魅了され中医学、薬膳を本格的に学ぶ。
中医学の素晴らしさを多くの人に知ってもらう為、2005年4月に横浜・青葉台で「薬膳料理レストラン心味」を開店。「薬膳教室心味」の他、東京・横浜の教室を中心にカルチャーセンター、大学の生涯学習センターなど講師をつとめる他、各種イベント開催やレストランにおける薬膳メニューの監修、執筆などを手がける。

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