「妻は浮気をしている」



 妻の美江子は浮気をしている。
 包丁がまないたを叩く音が軽やかに鳴っている。きっとネギを刻んでいるのだ。妻はなんにでも刻みネギを使う。納豆は勿論のこと、味噌汁に散らすことも多い。私は、かつてネギが嫌いだった。
 食卓に新聞を広げながら、私の目は活字を追っていない。蟻が整列したような文字列を視線が上滑りしていく。朝のニュースが時刻を告げた。午前七時。妻の包丁の音はまだ続いている。私の腹時計が空腹を告げる。ひたすら包丁の音だけが響いている。本当に妻が切っているのはネギなのだろうか。
 新聞紙を親指でわずかにたわめ、キッチンに立っている妻の姿を盗み見る。対面式のキッチンがいいといったのは妻だった。だが皿を差し出すのも彼女なら、受け取って食卓に運ぶのも彼女だった。対面しているのは妻ひとりで、私は隙間から彼女の背中をそっとうかがうことしかできないでいる。
 生の綿シャツにアゲハチョウのようにとまっているのは、妻のお気に入りのエプロンの結び目で、黒いエプロンの正面、大きなポケットの部分には、なにか花だか動物だかがプリントされていた記憶があるが、それがなんだか思い出せない。
 大きめのシャツがかえって妻の細さを強調している。頭の上にまとめている髪の長さは、いまはどれくらいなのだろう。おくれ毛が色っぽい。楽しそうに肩が揺れているが、妻はもしかして歌を口ずさんでいるのだろうか。だが、私には聞こえない。
 四角く区切られた空間の中、首から腰までの女の絵に、私は軽く欲情する。シャツはチノパンの中におさまっていて、腰のくびれが以前とちっとも変わっていない。結婚する前の妻は、しかしシャツをパンツにいれるような着方はしていなかった気がする。そんなことないよ、最近は下腹がでてきちゃって、と照れるように妻がいったのは、あれはもう一年以上も前のことだったか。
 包丁の音がやんだ。
 私はあわてて新聞紙の陰に隠れた。

 向かいあって朝食をとりながら、互いの視線はテレビに向いている。本当は妻の顔を見たくてたまらない。醤油に手を伸ばしながら盗み見た彼女の横顔はきれいだった。
 彫像めいた無表情をよそおっているが、本当はその内側で笑顔が爆発しそうなのをこらえている。私に気取られないように演技をしているのだ。頬に浮いた微かな緊張感が、妻を美しく見せている。ずっとずっと見惚れていたかった。だが、私にはできない。
 箸を口に運び、口を動かす彼女の動作にすら、どこか艶が感じられる。視線を意識している女じみた、見えない囲いに覆われたような内へ向かう所作。ふ、と彼女の口許が緩んだのを私は見逃さなかった。きっと男のことを思い出しているのだ。
 私は想像する。妻と、男のことを。
 男はきっと年下に違いない。妻は今年で三十五になるが、初めて出会った頃となにも変わっていない。いや、多少はシワが増えただろうか。だが澄ましていると険のある彼女の表情に、それは魅力を付加しただけだ。男は妻の肌の柔らかさと躰の柔らかさに夢中になっているに違いない。
 男はいうのだ。「美江子さんって、若いですよね」
 妻は片頬だけあげて笑う。「あら、そんなお世辞をいわれてもなにも出ませんからね」
 最初、年下の男は興味本位で美江子にアプローチをかけるだろう。人妻に手を出すというのはどんな気分なんだろうと。美江子は最初は本気にとらないはずだ。彼女は、自分の美しさを控えめに見すぎている。
「ねえ、美江子さん、今度ふたりっきりでデートしませんか?」
 本気だと思っていない男は気軽に美江子に声をかけ、本気だと思っていない美江子は気軽に男の申し出を受けるだろう。果たされるかどうかわからない約束なら、誰だってたやすく誓いをたてる。それが本当に果たされる段階にきても、まだ二人は冗談の延長上にいる。食事をし、酒を飲み、冗談めかした口説き文句を投げかけ、投げ返され、冗談の気分のままホテルに向かい、そこでもまだ本気ではないはずだ。
「――ねえ、本気になりそうだよ、俺」
 男は美江子の上で、吐息混じりにそういうだろう。そのときには半分が嘘で、半分が本気だ。
 美江子はなにも応えず、蕩けるような笑みを浮かべながら、男をやんわりと包み込む。男は夢中で腰を振り、いままでしてきたのはいったいなんだったのだろうと一瞬だけ思い、あとは目の前の快楽に溺れるだろう。美江子のくびれた腰は、観賞用ではない。
『大人なんだから、これきりにしよう』
 それが恰好いいと思い、前もって考えておいた台詞を、男は美江子の躰にぐったりともたれかかりながら、自分がいわれるのではないかと恐怖する。汲めども尽きない水のように愉楽を与え続ける美江子の躰に、自分がいかに無様で子供だったか思い知らされて。
 だが美江子は弛緩しきった表情で、あたかも菩薩のごとき微笑で男を抱きしめる。なにもいわず、選択権はあなたにあるのだとそう告げるかのように。
 男と美江子はたびたび逢うようになるだろう。若さにまかせて、美江子の迷惑をかえりみずに男は電話をかけ、美江子もまた困惑しながらも男の若さに惹かれて、しだいに夫婦生活がおろそかになっていく。
 美江子は利口な女だ。夫とは、家庭の仕事さえしっかりやっていれば女房の変化に気づかない、ただの木偶の棒だと知っている。だから、ことさら家庭のことはしっかりやるだろう。ときおり食事の支度をする間に鼻歌ぐらいは漏らすかもしれない。だが向かいあったら、いつものように表情をなくすだろう。
 夫は気づかない。家庭がうまくまわっていると思い込んでいる。なんの不平もいわず家政婦の仕事をこなす妻は、貞淑で善良で、家庭を第一に考えていると決めつけている。おろそかになっているのは、夫婦の間の礼儀で、それは家庭とは別物だと思い込んでいる。
 だが同じ屋根の下に住む人間は、自分とはまるで別個の、ただの女だとはまるで気づいていない。壊れていくものに、まるで気づこうとはしない。
「……あなた」
 美江子がいつのまにかこちらを見ていた。
「早く行かないと会社に遅れてしまうわよ」
「ああ。わかってる」
 私は冷めた味噌汁をすすった。椀にはりついたネギが情けなく見えた。食器を重ね、シンクに持っていこうとすると美江子が声をあげた。
「あら、いいのに。私がやるから」
「たまにはこれぐらいするよ」
「そう」
 微笑んでみせた美江子の目は、彼女が私の妻になる前とはまるで違っていた。形だけの微笑み。あの蕩けるような顔は、いまは誰に見せているというのか。
 食器を水に浸し、ついでに手を流水で冷やす。手が熱い。躰が火照っている。どうして朝っぱらから、自分の妻に欲情しなければならないのか。
 わかってる。昔を思い出しただけだ。
 いまでも美しい妻だが、その魅力を私はすっかり見ていなかった。手をかけなければ花はすぐに枯れる。だが根まで枯れたわけではない。誰かが水をかけるだけで、すぐに花は美しさを取り戻す。
 私は、かつて自分が彼女にいった言葉を思い出し、恥ずかしさに躰が熱くなる。
「ねえ、美江子さん。そんなどうしようもない旦那とは別れちまえよ。俺なら、きっと美江子さんを幸せにしてみせるから」
「やめてよ」と美江子はいったのだ。
「やめてよ。……そんなこといわれて、わたしが本気にしたらどうするつもり?」
「俺は本気だよ」
 本気だった。幸せにするつもりだった。それがすなわち自分の幸せだと、本気でそのときは思っていた。
 彼女は片頬だけあげて笑ったものだ。
「でも、あなたはまだ若いから。人の心なんてあてにならないんだから」
「ねえ、俺が訊きたいのはそんなことじゃないよ。俺と――俺と結婚してくれないか?」
「わたしは主婦よ。あなたより年上の、ただのくたびれたオバサンなのよ。これはただの浮気。そうでしょ?」
「浮気じゃない」
「浮気よ」
「本気だ」
 頑なな私に向かって、美江子は喉を震わせて笑い、母親が子供にするように優しく抱きしめてくれたのだった。
 ハンガーから上着をとって、それを着ながら玄関へと向かう。昔は美江子が着せてくれたものだった。いまでは玄関でのお見送りも、いってらっしゃいのキスもない。
 だが、そうさせてしまったのは私だ。
 「どうしようもない旦那」と罵った、美江子の前の亭主と、同じ愚を犯してしまったのは、この私自身だった。
「いってきます」
 つぶやくようにいって、家を出る。電話の呼出音が小さく聞こえた。ドアが閉まる寸前、「はい、美江子です」という妻の声が聞こえた気がした。
 妻の美江子は浮気をしている。
 かつて私と、そうしていたように。

(了)




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