「春宵一刻」



 門をくぐると、庭の桜は満開だった。
 春野晴男を出迎えた桜並木は正面と左右に伸びている。夕方の空に映える雲のようだった。
 夕日は桜の向こうだ。霞のかかった空は青く薄い。春野はしばらく桜と空とに見入っていた。
 プログラマーの神田冬彦が『事故死』した二週間前の空も同じ色をしていた。
 神田をはねたのは真赤なスポーツカー、ミツボシのオリオンだ。
 質量68kgの物体に衝突してオリオンがわずかに速度を減じる。春野の同僚の小太りの身体が運動エネルギーを得、三分咲きの桜並木の間を飛ぶ。桜の一本に当たる。
 その様を、春野は想像しなかった。
 彼の耳は憶えていた。衝突音と、続くブレーキ音。二週間前、彼が門をくぐった直後の『事故』だった。
 ブレーキ音のコミカルな甲高さをまだ憶えている。
 正面の道を選び、門から屋敷まではゆっくり歩いて五分ほど。歩くうち屋敷の扉を開けて女主人が姿を見せた。赤いオリオンのオーナーで、神田をはねた時運転していたのは彼女だ。
 美浦陽子、盲目のバイオリン奏者。細身の身体を飾り気のない白いワンピースで包み、小さな顔に似合わない男物のミラーグラスをかけている。左手にノートパソコン大のカバン。ということは、B3を起動中なのだ。
「お出迎えありがとうございます」
「こちらこそ。はるばる来てくださいましたね」
 はるばるというのは嫌いな方のあだ名なんです。春野はそれを口にしなかった。
「桜を追いかけてきました。東京はもうすっかり散っていますけど、ここはまだ満開ですね」
 女主人しばらくサングラスを桜並木の方に向けていた。
「明日には散り始めるでしょう。
 上がってください」
 春野はわずかにためらった。ネクタイを直す。
「もし構わなければ、庭を見せていただいてよろしいですか? その、後でもいいですけど」
 ここの庭は結構有名なんです。と説明する春野。鬼才、硬木肇の手になる庭で最大の規模があるのが美浦邸だ。
「めったに公開されないので、資料も全然ないんですよ」
「春野さんは庭が好きなんですね」
 構いませんよ、と女主人は応じた。「私はこれまで庭をゆっくり歩いたことがありません」ここから入りましょう、と無造作に入り口の一つを選ぶ。
「持ちますよ」
 左手のカバンに手を伸ばす春野。美浦はすっとその手をかわす。
「ありがとう。でも離したくないのです」
 「ありがとうと、言えば」美浦の身体動作は極端に少ない。まるで人形のように、身体を動かさず話した。生来視力を欠くため、身体動作の意味を学ぶ機会がなかったのだ。
「春野さんにはお礼を言わないといけません。
 事故だと言ってくれたでしょう。警察に。おかげで面倒なことにならずに済みました」
 美浦の運転する車が人をはねた、その事件を警察は三つの理由から丸く収めたがっていた。
 まず加害者、美浦陽子が適当に知られたバイオリン奏者であること。一級の奏者ではない。技術が勝り、美を知らぬ。家の影響力で地位を保持している。そんな評価が定着していた。それでもわずらわしいスキャンダルになる。
 それが好ましくないのは二つ目の理由だが、美浦が資産家だからだ。庭に車で走れるほどの桜並木を有する資産家は当然あちらこちらに顔が利く。当主を犯罪者として検挙すれば警察としても面白くない状況になることは間違いない。
 最後の理由は美浦が無免許だったことだ。個人の庭で起きた事件だからそれで検挙することはできない。問題は、彼女が免許を取れなかったのは盲目だからだということだ。盲人が運転する車が人をはねた。そんな荒唐無稽な事件は事故としか処理できない。
 春野は、事件は視覚代用システムB3の試験中に起きた不慮の事故だと証言した。プログラマーの神田が自分を『透明』にしたまま車の前に出てしまった。衝突してからブレーキが踏まれたのがその証拠だという彼の説明がほとんど鵜呑みにされたのは、それが理由だ。
 庭園の入り口はよくある生垣の迷路だったが、生垣に銅製、陶製の木が混じっている。冬と夏とで風景の一変する仕掛けだった。生垣を抜けると枯山水。
 春野は首を左右に振ろうとして、美浦が盲人だと思い出す。が、B3システムを起動しているのだからと首を振り直した。
「我々営業の人間は、顧客の利益を守るのが仕事ですから」
「私は知っていました。
 並木のどこかで神田さんが、私の運転する車を待っていた。そのことを私は知っていたんです」
 枯山水に視線を向けたまま、春野は五秒ほど考える。営業の仕事は顧客の利益を守ること。確認する。迷いは消えた。
「不躾な質問で申し訳ないですが、それは神田君が美浦さんに好意を抱いていたことに関係がありますか?
 彼から相談を受けていました。仕事上の関係に私事を持ち込むのは感心しないと忠告しました。しかし、私の言葉は届かなかったようですね」
 視覚代用システムB3は三つのハードと十数のアプリケーションからなる。まず、一見サングラスのように見えるカメラ。レンズに映る「視界」を小型のアンテナで送信する。これを受信するのがシステムの本体と呼ぶべき翻訳機で、左右のレンズの角度の差から距離を割り出し、遠距離、中距離、近距離の三種に区分して音声情報に変換、送信する。これを受信するイヤホンが三音声を同時に再生する。
 プログラムは簡単ではなかった。道路などの連続性の判定。移動する物体の処理。プログラムはほとんど神田の手で書かれた。
 システムが七割方度完成した三ヶ月前から神田は美浦邸に泊り込んでいた。それは美浦の要請によるものだ。B3葉まったく新しいシステムで可式社にはノウハウがない。実際に使うとなれば使用者に合わせた細かな調整が欠かせない。
 東京に本社を置く可式社から一々調整と確認に出向いたのでは移動の分だけ開発が遅れる。美浦邸には空き部屋がいくらでもある。滞在費用はもつからプログラマーを泊り込ませろ、と美浦が要求したのだ。
 春野が神田から相談のメールを受けたのは一月前。神田は忠告を聞かず、事件の前日夜更けに三浦の部屋を訪れた。愛していると告げ、自分が目の代わりになるからB3のことを忘れて欲しいと懇願した。
「考えられないことです。私は、美を知らなければならない。B3で。私が美を知らない、と陰口を叩く評論家どもに思い知らせてやらなければいけない」
 美浦は神田の求愛を拒み、部屋から追い出した。
「なるほど。ところで、美浦さんは神田君の顔をご覧になったことがありますか? つまりB3で、ということですけど」
「ありません。彼はいつも『透明』でした」
「そうでしょうね。死んだ人をこう評するのもなんですが、彼はつまり、あまり見栄えのする顔ではなかった。B3が完成すれば自分は美浦さんに嫌われるだろう。メールにはそうありました。
 美浦さんに顔を見られず、それでも記憶に残る。彼はつまりそんな方法を考え出したわけです。
 美浦さんの運転する車にはねられる、という」
 はっと顔を上げる美浦。
「そうです。美浦さんが悔やめば悔やむほど彼の思惑にはまります。悪意のある自殺ですよ。かわいそうな男ですが、忘れてください」
 枯山水を抜けると再び生垣の迷路。硝子の木があって鯉のいる池があって、橋を渡って薔薇のアーチをくぐると桜並木に戻った。
 空の青が濃くなり、冷機と共に降りてきた夕闇が辺りを青く染めている。満開の桜は並んだ松明のように浮き出して見える。花弁の一枚一枚が光を放っているかのようだった。
 桜の向こうに、猫の瞳のような細い月があった。
「見えますか?」
 春野はB3を起動させている美浦を振り返る。
「分かります。空が青くて、木は桜。花はピンク。壁までその列が続いている。遠近が分かりやすくなりました」
(俺が死ねば、B3を完成させられる奴はいない)
 春野は神田のメールを思い出していた。
(B3システムで、『美』を見ることなんてできやしない。こいつは結局視覚の代用だし、視覚と美の間にイコールはない)
(B3の完成は陽子さんを追い詰めるだけだ)
 春野の隣で、美浦は物珍しげに辺りを見回している。見えますか、ともう一度春野はたずねた。
「ええ。分かります」
(例えば俺が赤外線を見えるようになったからって、『美』について何かを理解するわけじゃない)
(視覚の代用プログラムは書ける。美覚の代用プログラムは無理だ)
 俺が死ねばB3は未完成のままで、彼女は美をあきらめずに済むんだ。メールはそう終わっていた。
 彼の死を、美しい自己犠牲と呼ぶべきか?
 だが、春野が今日美浦邸を訪れたのは新しい開発チームが組まれた連絡と日程の詰め直しが目的だ。神田は確かに優秀なプログラマーだった。だが、二人分働ける一人が消えれば一人分働ける二人を雇う。会社はそうやって動いてゆくのだ。
 夕闇が夜闇にグラデーションしてゆく。強い風が吹き始めた。
 春野は打ち合わせを手短に終えて屋敷を辞した。
 美についての判断は、彼の業務には含まれない。




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