「ビーナスの継ぎ目」



「ねぇ、ミザリ。ルーブル美術館にミロのビーナスってあるじゃん? そう、あの両腕のない、胸のでっかい女の人の彫像。美術の先生が言ってたんだ。もし、あれに腕があったら、世界で一番美しい女の人の像だったはずだって。だからさ、付けに行こうよ、手」
 油絵の隅にサインをかき込みながら、ジミーはそう言ってミザリを誘った。
「いいよ、行こっ」
 ミザリは躊躇なく頷いた。久々のオファーを断る考えなど一縷たりともなかった。
 窓から差し込む夕陽が、琥珀色に部室を灼いていた。ミザリは眩しさに眼を細める。放課後の高校の美術室は、ジミーとミザリの二人きりだった。
 小太りで背の低い少女がミザリだ。ブレザーの背中がストレッチ素材でもないのに左右に引っ張られて悲鳴を上げている。短い足を無理して組み、いつも無駄に疲れていた。
 ジミーはミザリに背を向けたまま、静かにキャンバスの上で筆を踊らせている。ジミーは彼女とは対照的にもやしみたいな男の子だった。少し眉尻の下がった、柔和な顔立ちをしている。頼りない印象が印象が可愛いと評判だった。絵画と造形に秀逸な才能を持つジミーは、州でも一、二を争う芸術家の卵だった。
 彼のキャンバスには、ミザリの知らない女が編み物をする手が描かれている。顎から上は顔がない。二カ月前まで、そのキャンバスに描かれていたのはミザリだった。
 ミザリは一年ほど専属モデルをしていた。粘土細工を造ったり、ゴム鉄砲をしたり、時にはナイフの刃を握り締めたりして、そのミザリの手をジミーは描いた。が、それがある時からなくなった。理由は分からない。ただ、以来キャンバスには他の女の手がよく描かれるようになったということだ。
 暇と感情を持て余しながら、ミザリは机に肘をつき、指をからめる。剥いたゆで卵みたいな奇麗な手だ。彼女の体のパーツの中で、指だけが人に自慢できる部品だった。
「美術館に忍び込むから、協力して欲しいんだ。大丈夫、警備情報はもう仕入れてあるから、見つかりはしないよ」
 ジミーは穏やかな声音で言う。
「うん」
「今週の日曜日の夜、十一時に美術館の向かいの喫茶店で待ってるから」
「うん」
 芸術家の指示はモデルにとって絶対だ。

「日曜日の警備員は、怠け者なんだ。モニターの脇のテレビばっかみてる。特に、十一時からはお気に入りのコメディーショウがあって、今頃はテレビにかじりついてるよ」
 ミザリの耳朶でジミーは苦笑して囁いた。彼女を招き入れ、ドアを閉める。学芸員が展示品の修理や手入れを行う工房の裏口から、二人は侵入した。
「そいつと仲良くなって、セキュリティ情報を聞き出したとか?」
「まぁね」
 美術館の塀さえ乗り越えてしまえば、あとは物足りないほどだった。逆に発見されやすいからと、ジミーは懐中電灯も持ってきていない。幸い、非常灯や防火灯のおかげで、二人はかすかに視界を確保できた。木製の作業台の列を通り過ぎ、美術館の本館へ向かう。少し埃っぽい空気。かすかに空調と機械の電子音がしていた。薄暗く狭い通路の左右には、丁寧に布で保護された像や木枠で梱包された美術品が所狭しと並んでいる。
「一応、音は立てないで。警備員に気づかれるかもしれない」
 相変わらず穏やかな声でジミーは言う。進む足取りは躊躇なかった。ミザリは自分の横幅に気を配るのと、置いて行かれないようにくっついていくので必死だ。十歩と歩かない内に汗が溢れてくる。モデルを始めた頃痩せようとしたら、ジミーは優しく諌めた。そのままのミザリで良いと言ってくれた。その時は嬉しかったが、やはり、少し痩せておけば良かったと、今更ながらミザリは後悔した。
 先をゆくジミーの背中には、スポーツバッグがある。ちょうど人間の腕ぐらいの長さだ。ビーナス像の為に造った腕が入っているのだろうとミザリは思った。モデルになった手は、きっと最近キャンバスに描かれていた女の物だ。ミザリの分厚い唇が歪む。灼けつく嫉妬と一緒に噛みしめた。
 そもそもこんな夜の散歩に付き合ったのは、彼が浮気した手がどれほど美しいのか見てやろう、そう思ったからだった。
 工房を抜け、二人は荘厳たる美術館に入る。ルーブル美術館は元は城だった建物だ。二人はいくつもの石作りのアーチを潜り、幅広の低い階段を踏み締めながら進んだ。石畳の回廊を歩きながら、ベルサイユ宮殿を観光した霊感の強い友達が、首を抱えた貴族の幽霊を見たという話を思いだし、ミザリは無意識の内にジミーと距離を詰めた。
「こっちだよ。ビーナスは古くて見飽きられているから、奥に展示されてるんだ。あれほど美しい像は他にないのにね」
「ふぅん」
 ミザリはそんなことには興味がない。彼女の頭の中にあるのは、常に自分の体重と手のことだけだ。
 天井一面に絵画が飾られたメイン展示場を抜け、奥へ向かう。目立たない位置だというのに、それでも絶大な存在感を伴って両腕のないビーナス像は沈毅と佇んでいた。
 熱にうかされたようふらふらと、ジミーは柵を乗り越えてビーナス像に近づく。足を隠した裾を両手で愛しそうに撫でた。と、後頭部を数回掻き毟る。
「しまった。踏み台を忘れてた」
 ミロのビーナス像は一メートルほどの黒い台に乗せられていた。加えて像の丈が一六八センチもある。
「ちょっと何か台を探してくるよ。この辺の陰に隠れて、警備員が来ないか見張ってて」
 ジミーは早口に言って、スポーツバッグをミザリに押し付けるように預けると、回廊を小走りに戻って行った。止める間もない。
「ちょ、ちょっとジミー!」
 ミザリはおどおどと辺りを見回し、ビーナス像の後ろに隠れる。憎たらしい腕が入っているスポーツバッグを乱暴に投げ捨てた。壁にくっついて少し屈み、辺りに神経を張り詰める。しばらくそうして固まっていたが、ミザリはこらえ性がない。二、三歩フロアーに出ては引き返し、階段を登って回廊の奥を覗いては慌てて帰って来たりを繰り返した。
「もうっ……、どうしろっていうのよ」
 結局ビーナス像の後ろへ戻り、ミザリは憤然と座り込む。両膝を抱えようとしたが、贅肉が邪魔をして余計に苛ついた。
 ふと、スポーツバッグが目に入る。防火灯の明かりに照らされ、ビニールの赤いラインが光っていた。ミザリの双眸がゆっくり見開かれる。心臓が一際強く脈打った。
 どんな手が、入っているんだろう。あたしのよりも、美しい手。あたしのよりも、ジミーに愛される手。あたしのよりも……。
 ミザリの指が冷たいジッパーを挟んだ。勢いよく開けるより一拍先に、頭上で鋭く空気を裂く音がした。振り返る暇もなく脳天に固い衝撃が落ちてきて、ミザリはそのまま食用蛙のように押し潰された。
 暗転はそれほど長くはなかったはずだ。
 ミザリは遠くから聞こえる誰かの笑声で、瞼を持ち上げた。頬を刺す絨毯のちくちくした痛みで自分の所在を確認する。気分は最低だ。吐き気も喉元まできている。脳みそを乾燥機にかけたように、熱くて浮遊感があった。ミザリは意識の境界線の後先を模索する。
 きっと、警備員に見つかって取り押さえられたのだ。その時に、打ち所が悪くて気絶してしまったに違いない。頭がぐらぐらするのは脳震盪だろう。
 結論に至ったところで、いつまでも床に転がっているのは格好がよくないのに気が付いた。ミザリは起き上がろうとする。背筋に力を込め、腕を立てる。
「……?」
 変だ。
 絨毯は未だ、鼻先にある。何故だか、起き上がれない。とても奇妙な戸惑いだった。
「ああ、やっと起きた?」
 ジミーのご機嫌な声がした。ミザリが顎を上げると、ぼやけた視界の中でジミーが振り返る。後ろから防火灯の光りを受け、脚立に乗ったジミーは赤い光りの中で極上の笑みを浮かべていた。
「見てくれ! 君のおかげで完成したよ」
 ビーナス像に向かって両手を広げる。
「美しいの一言に尽きると思わないかい!」
 恍惚たる声に促され、ミザリはビーナス像を見やる。思わず感嘆の声が震えた。
 薄闇の中にビーナスがいた。両腕がふくよかな腰を形どって流れている。柔らかでしなやかな腕の質感が、影からですら伝わってきた。むしろ影がなまめかしい艶を生み、濡れているように青白く光って見えた。
 同時に、ミザリは奇妙な既視感を覚えた。どこかで、よく見たことのある手だ。ジミーが浮気した手? いや、違う。それよりももっともっと見慣れた手だ……。
 感極まったジミーはビーナス像を抱きしめ、頬ずりをする。腹の底から熱いため息をはいた。顔を防火灯の明かりがかすめ、頬や襟についた何かに反射した。ミザリは怪訝に眼を細める。それは、血に見えた。
 顔に血が付いているよ、と伝えようとして、ミザリはしゃべりにくいことに気付く。口だけではなく、体全体が動かない。猿ぐつわをかまされ、体と足を紐で縛られていた。横に半身転がり、体を見下ろす。服が血の粘性でべとついていた。どこから出る誰の血なのか、ミザリは緩慢な動きで確かめようとした。そして、引き付けのような悲鳴を上げた。
「ああああっ……!」
 ミザリの肩から下、両腕がなくなっていた。奇麗に切り取られた断面から、黄色い筋肉や骨が顔を覗かせている。
「色んな人の手を描いて、改めて気づいたんだ。やっぱり、君の手は最高だって。ビーナスの物となるに相応しい。僕の言うとおりダイエットもしないでくれたから、太さも丁度だったし」
 放置されたスポーツバッグには、針金やニッパー、血糊のついた包丁に注射器が乱雑に突っ込まれている。ミザリが全く苦痛を感じていないのは、注射器で血管に打ち込まれた高濃度の向精神薬のおかげだ。
 ミザリはぼやけた焦点を、努力して合わせようとする。
 ビーナス像の肩で光る針金の継ぎ目は、歯の矯正のそれに似ていた。針金が白い皮膚を錬成したかのように、見事な腕が伸びている。三種類の物質で数千年ぶりに完璧な姿を取り戻したビーナス像は、勝ち誇った笑みで膨よかな頬をほころばせているようにミザリには見えた。恐怖と屈辱で背骨が震えた。
 ジミーはビーナス像の腕に優しく口付ける。
「世界で一番美しい手は、生きている人間の手。そうだろ?」




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