「ハネモノ」



 「ハネモノ」は現存するパチンコの最も原始的な形態です。ルールは単純、球がVゾーンと呼ばれる中央の入賞口に入れば大当たり。ただVゾーンは通常、開閉式の羽根で閉ざされていて玉が入りません。ここを開かせるためには一旦、チャッカーと呼ばれる下方の小さなポケット(大抵は三つあります)のどれか一つに玉を入れる必要があります。デジタル機やスロットと違って、確率や運任せの要素は存在しません。逆に言えば一〇〇パーセント、自分の実力のみで打たなければならないということです。
 でも玉がどこに転がるのかは確率や運の問題だとあなたは思うでしょう。たしかに大半の人たちが運やら確率やらに依存しながらハネモノを打っていることは否めません。でもハネモノを極めた、あるいは本気で極めようと思う打ち手なら、それらが真っ先に手を切るべき胡散臭い香具師であることを知っています。想像する力によって全ての不確実なるものを凌駕すること、これがハネモノという器械の持つ「遊技」の本質であると私は思っています。
  
 私がいつも行く店には、一〇台のハネモノ機が置いてあります。私はこのうち九台が全然出ない、すなわちハズレの台で残りの一台だけがアタリであることを経験から知っています。もちろん日によってアタリの台は異なります。私は他の機種には目もくれず真っすぐにハネモノの台に向かいますが、その道のりは遠く、寂しいものです。スロット機などと違って射倖性が低いハネモノ達は人気がなく、まるで孤独な老人達のようにひっそりと、目立たない奥の片隅に追いやられているからです。最近ではそもそもハネモノを置かない店も増えつつあるといいます。
 店員達は私の姿を見かけると、気まずそうにそっと目をそらします。中には露骨に嫌な顔をする人もいます。仕方がありません、私はハネモノしか打たず、しかも私が店の利益に貢献することはないのですから。この店からハネモノが消える日もそう遠くないでしょう。
 私は数万もの石塊の中からたった一つの翡翠を見分ける鑑定士のような真剣さで、一台一台を吟味します。それは何時間もかかる辛い作業です。日によっては台に触れることなく閉店時間を迎えることもあります。
 もちろんただ漫然と眺めているだけでは何も分かりません。台の表情、すなわち釘の向きを読むことに注意を集中させるのです。釘を見ただけでその台が微笑んでいるのか、不機嫌そうにしているのかが分からないうちはハネモノを極めたとはいえません。これは比喩ではありません。釘が良い向きをしている台は盤面が笑いかけているような「感じ」がします。表情は打つ人によって違うけれど――私には清楚な感じの若い女性が、何かの美しい記憶をふと思い出して微笑んでいるような「感じ」がします――良い台は笑顔、そうでない台は不快そうな顔という点では概ね一致しています。
 あなたがこの表情を感じる術だけを学び取ろうとしても、それは初めてサックスを手にした人がオーネット・コールマンの真似をするようなものです。間違い探しの感覚でいいから、まずは目に見える違いを読みとることに専念してください。二つの台が、釘の向き一つで土佐犬とマルチーズくらい違って見えるようになったら、あなたが先程の表情を「感じ」られるようになる日も近いでしょう。

 実践的にみても、釘の角度が三度違うだけで玉の跳ね方はがらりと変わります。上向きなら盤面の奥に向かって小刻みに跳ねるし、下向きならばその逆。そして釘がほんのわずかでも右を向いていれば玉は左、左を向いていれば右に流れます。
 釘を読む時、私は自分が船乗りになったような気分になります。彼等が海風の塩辛さや空の微妙な色合いで気候の変化を読みとるように、私は釘の向きによって、玉が導かれる方向を読み解いていくのです。
 でも勘違いしてほしくないのは、本当に大切なことは一本一本の釘の向きが読めることではないということです。個々の楽器の音が聞き分けられたとしても、それが交響曲の主題の理解へと繋がらなければさしたる意味を持たないのと同じこと。そう、大切なのは主題、すなわち釘が指し示すラインを発見することにあります。たとえ釘の向きがすこぶる良好であっても、確固としたラインを描けない台は、巧妙に「アタリ」を装ったハズレにすぎないのです。騙されてはいけません。
 私はこの釘を見る作業によって、おおむね二台にまで絞ることができます。そして残った五台はたいていの場合、双子のように良く似た表情をしています。二人はとっておきの笑顔を浮かべて私に選び取られるのを心待ちにしています。しかし片方の微笑みはニセモノです。心の奥底では邪悪な笑みを浮かべて、私を堕落させようと企んでいるのです。

 ラインを見いだすコツは、頭の中に寸分違わずそっくりな盤面を描くことにあります。他のことは頭から追いやって、目の前の台をあらゆる細部にいたるまで完璧に描写すること。釘だけではなく、盤上に描かれた俗っぽい絵、わずかな塗装の剥がれにいたるまでとにかく忠実に。
 頭の中に小さな空っぽの部屋があって、そこにあなた自身が立っているところを想像してみてください。あなたはこの頭の中のあなたのために台を創りあげるのです。そのうちに頭の中のあなたは勝手に台を吟味し始めます。そこまでいけば合格です。さらに上の域まで行くと、頭の中の自分がその頭の中の自分のために想像した台まで見えてくるそうです。
 盤面が描けると、不意に目の前がフラッシュをたかれたように真っ白になる瞬間がやって来ます。視界が戻ると盤上に誰かが口紅で描いたような真っ赤な線が現れています。それは発射口から優雅な弧を描いて上昇し、重力と釘の導きに従って下降します。巌に流れを遮られては身をくねらせて迸る、浅春の渓流のごとき美しい軌跡。この神秘的なラインこそ、私の探し求めていたものです。このチャンスを逃してはなりません。瞬きなどもってのほか。すぐにラインはもぞもぞと蠢きだし、無数の微細な赤の点々へと分散していってしまうからです。点は猛烈な勢いで減っていき、最後の一点が消えた時にはもうすっかり啓示の気配は失せています。このわずか二、三秒の間に、ラインをしっかりと目に灼きつけなければなりません。
 
 台が決まったのだからあとは打つだけだ、とあなたは思うでしょう。しかし実際はまだ行程の半分しか終わっていません。ここで打ち始めるのは潜水服なしで海底に潜るようなものです。
 理想のラインに従って玉を打ち出すためには、発射レバーを調節して玉の軌道を定める必要があります。もちろん試し打ちなどしません。私は情熱的な集中力でパチンコ玉を想像します。ひんやりとした銀色。球体を取り囲むように刻まれた店の名前。つるりとした球面は反射する光を一点で捉えています。軌道調整にはこの玉を使うのです。
 今度は発射レバーを持つ手に全神経を集中させるんだね、とあなたは思うでしょう。それはある意味正しいけれど発想が根本的に誤っています。ここに至っては私と台とはもはや切り離すことができなくなっています。なぜなら台の中には私の創りあげたものが存在し、私は頭の中にしっかりと台を思い浮かべているのですから。私は台であり、台は私なのです。
 発射レバーから打ち出される想像の玉は、私自身に他なりません。私はレバーに思い切り尻を叩かれ勢いよく飛び出し、イカロスのように力強くぐんぐんと上昇します。開放感とないまぜになった不安感。ちらりと眼下に目をやると、夥しい数の小さな金色の点が見えます。よく見るとそれは小さな金色の少女達です。その中でたった一人、天に向かって両腕を伸ばし、落ちてくる私を受け止めようと待ち受けている人がいます。私はあの腕に抱かれたい。そのためには完璧な速度で打ち出されなければならない。私はあと一歩のところで何度も奈落へと落ち、落ちる度に少女に対する渇望は強まっていきます。
 そして遂に完璧なタイミング、完璧なストロークで打ち出される時がやって来ます。少女の胸に飛び込んだ私は、隣の少女、そのまた隣の少女の金色の腕に次々と手渡されていきます。私の軌跡は忠実にラインを辿り、最後の少女の腕を離れ、チャッカーの揺りかごに転がり落ちる瞬間、私ははっと我に返ります。湯あたりした時のような浮遊感が身体をぼんやりと包んでいます。でも右手にはしっかりと、完璧な調整の記憶が刻まれているのです。

 ここで私の話は終わりです。それがそんなに不思議ですか? 最初に言ったとおり、私はただ遊技としての愉しみを求めているだけなのです。それはもう達成されたのだから、あえて現実の玉で打ち直す必要なんて少しもないでしょう。
 検証しなくていいのかですって? 検証というのは真偽が不明の事柄についてこそ必要で、私は自分の辿り着いた場所をちゃんと知っています。証明されないからといって何かを信じないのは、死んだことがないからといって死の訪れを信じないのに似ています。
 おそらく証明を欲しているのはあなたの方なのでしょう。これからは、私が調整を終えた台はあなたのために残しておくことにします。駅前の――二件ある小さい方――の店に、閉店間際に立ち寄ってみてください。運が良ければ――目ざとい店員に外されたりしなければ――ハンドルが一〇円玉で固定された、ハネモノの台を見つけることができるでしょう。
 でも本当は、あなたがそこに現実の玉を落としたりしないことを望んでいます。私はあなたが頭の中で拙い銀の玉をこね上げ、今はまだ見えない私の軌跡を辿ってくれることを心から願っているのです。




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