「夏祭(なつまつり)」


「あんたがこんな男前を捕まえるとはねえ」
 登志子は嬉しそうに孝弘と圭子を交互に見比べると、ほっとため息をついた。
「母さん、あんまりじろじろ見たら失礼でしょ」
 圭子は咎めるような口調で言ったが、それでもつい嬉しさがこぼれでるのは隠せない。彼女にとって、母の顔を見るのは父の葬式以来、実に三年振りだった。親不孝とは分かっていたが、帰省の度に母親に結婚しろだの、仕事を辞めろだのと口やかましく言われるのが耐えられなかったのだ。今年は30間際で職場の後輩の孝弘との婚約が決まり、ようやく大手を振って郷里に戻ったという訳である。
 しかし、晴れがましいはずの帰省だったが、圭子は何となく面白くなかった。
「おじちゃんと結婚するのは律だよ」
 孝弘の腕にしがみつきながらそう宣言するのは圭子の姉の娘の律で、今年で11歳になる。
「お盆の時期だけでも預かってくれってさ」
 そう言って登志子は嬉しそうにこの初孫の世話を焼くが、圭子は内心彼女が疎ましかった。律は何故か異常に孝弘を気に入ってしまい、片時も側を離れないからだ。
「孝弘おじちゃんと結婚できるんなら、律は死んでもいいよ」こんな科白まで飛び出す始末だ。
 たかが子供の言うことと、孝弘は気にもとめていない。圭子自身、気にかけるのは大人げないと頭ではよく分かっていた。
 しかし一方で、自分が律の孝弘への想いの激しさにたじろいでいるのも事実だった。子供だというその一事だけで、彼女の気持ちを戯れと否定するのは誤っている。むしろ子供の方が何の衒いも駆け引きもなく、真正直に想いのたけをぶつけてくるものではないか。そんな律を圭子は正直羨ましくも感じていた。

「圭子、あんた紅い口紅持ってない?」
 夕方、登志子は圭子が買い物から帰るなり早口で尋ねた。
「こんなのしかないけど……」
 圭子は化粧ポーチをまさぐって、友人の海外土産の口紅を探し当てた。中身を出すと、薔薇に似たきつい香料の匂いが鼻をついた。
 夕日に照り映えた柿の実のような、鮮やかで深みのある朱の色。圭子も一度だけ試してみたが、唇ばかりが無遠慮に目立ってひどくみっともなく、それ以来ポーチの奥にしまい込んだままだった。
「誰が使うの?」
 まさか母ではあるまい。
「律ちゃんだよ。今日のお祭りのために、浴衣をあつらえておいたんだけど、折角だからお化粧もさせようと思って」
 夕飯の下ごしらえをしてから、圭子が居間に入ると、律の支度はあらかた整っていた。白地に大きな朝顔がプリントされた可愛らしい浴衣に、山吹色の帯を片流しできりりと結び、祖母が最後の仕上げに紅を引き終わるのを今かと待っている。
「見てごらん。お人形さんみたいだよ」
 登志子がそう言うと、律は待ってましたとばかりに三面鏡に飛びついた。圭子は鏡越しに律の顔を覗き込んだ。
 律は信じられないくらい綺麗だった。
 まず目に付いたのは唇だった。ちんまりとしているが、はっとする程朱い唇は薔薇の花弁のよう。ほんの少し粉をはたいただけの肌は、陶器のように滑らかで透き通るように白いが、頬のほんのりとした紅さが健康的だった。そしてちょっと目尻の上がった目の中では、黒檀のような瞳がきっと前を見据えている。
 この子はこんなに綺麗だったかしら。圭子は姪っ子の豹変振りに目を見張った。
 もっとも一番驚いたのは律自身のようで、彼女は鏡の向こうの自分にしばらくぼうっと見入っていた。
 と、次の瞬間、律の表情が変わった。
 客観的には、ほんのちょっと笑みを浮かべたに過ぎない。しかし、その一瞬の表情の変化から、圭子は律の中の大きな変化を看て取った。
 自分が女であることを意識した表情。
 少女の顔の上で、それは清楚さと淫靡さを併せ持つ、独特の色香を放っていた。
 ふと、鏡の中の律と目があった。
 その途端、律の顔からあの蠱惑的な表情が消え、いつもの無邪気な小学生の顔に戻った。
「おおい、律ちゃん、支度できたかー?」
 孝弘ののんびりした声がすると、彼女は圭子には目もくれず、そそくさと孝弘の元へ駆けていった。

 圭子は布団に丸まりながら、遠くから響いてくる祭囃子の音を聴いていた。
 三人で行こうと孝弘に誘われたが、頭痛がすると言って断った。実際、あの律の顔を見てからひどく気分が悪かった。
 しかし、二人が行ってしまうと、次々と下らない想像ばかりが頭に浮かんで、かえって圭子の気持は乱れた。
「馬鹿みたい」圭子は呟いた。
 一体自分は20代も半ばの大人の男が、本気で小学生に興味を持つと思っているのだろうか。勿論そういう人種も存在するが、孝弘はごく健全な趣味の持ち主だ。
 ──でも、あの律の顔。
 明らかに律は、自分の中に男を翻弄し、嗤い、嘲り、最後には優しく受け容れる女そのものの顔をしていた。
 あんな表情を向けられたら、孝弘はどう思うのだろうか? それでもあの子をただの子供と笑えるのだろうか?
 圭子の頭の中で、律は妖しい笑みを浮かべて孝弘を見つめている。孝弘は吸い寄せられるように律の唇を貪り、浴衣の袷に手を差し入れる。それから二人は叢に倒れ込み──。
「ただいまー」
 孝弘の声に、圭子ははっと我に返り、気分が悪いのも忘れて玄関に飛んでいった。
 律は孝弘の腕の中ですやすやと眠っていた。着物はすっかり着崩れて、真っ赤な口紅はあらかた落ちてしまった彼女は、ただの遊び疲れた子供にしか見えなかった。
「大丈夫か? お前、顔色悪いぞ」
 ただならぬ様子の圭子を見て、心配そうに孝弘が声をかけた。

「全く、子供ってちょっと目を離すとすぐどこかに行っちゃうんだもんな」
 寝室に戻ってから、心底疲れたような声で孝弘が言った。いつもと同じ、やましい様子など微塵も見られない。
 圭子はほっとすると同時に、想像力たくましい自分が急に恥ずかしくなり、照れ隠しに孝弘に抱きついた。孝弘はそれに応え、彼女の顔に唇を寄せてきた。
 その瞬間、圭子の頭で何かが閃き、反射的に孝弘の身体を押しやった。
「どうしたんだよ?」
 困惑している孝弘の口元を、圭子はじっと見つめた。
 彼の唇からは、微かに薔薇の香りがしていた。




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ヒトコト

※この作品は第4回 うおのめ文学賞掌編部門第一位をいただきました。

photo*by white garden