「月光」

 私が外に出るのを止めてから、今日でまる一ヶ月になる。
 最初の一週間くらいは地面の固さとか、雑踏とか、街の空気などが懐かしかったが、記憶が薄れるに従ってそれらに対する執着も消えていった。

「もういい加減学校に行ったら?あんただって一生そうやってうちに閉じこもってるわけにはいかないの、わかってるでしょ。ぐずぐずしてると、本当に勉強、追いつかなくなるわよ」
 母はテープレコーダのように毎日同じ言葉を繰り返す。言われた当初はいちいち傷ついていたが、鞭打たれすぎた神経が麻痺してやがて痛みを感じなくなるように、その言葉は私の中を素通りしていく。
「全く、あんた高三にもなって恥ずかしいと思わないの?あんな事故くらいで。世の中にはね、あんたよりもずっと辛い思いして生きてる子供、いっぱいいるんだからね……」

 母はひとしきり怒鳴り散らした後、無反応な私の顔を見て諦めたように溜息をつき、乱暴にドアを閉めて私の部屋から出ていった。
 私は部屋の鍵を掛け、パジャマを脱いで全裸になった。カーテンは開いているが、電気をつけていないから、望遠鏡で覗きでもしない限り外から見えることはないだろう。
 私はベランダに続く、部屋のサッシの前に立った。宵闇で暗くなったガラスが鏡になって、私の裸体をくっきりと浮かび上がらせた。

 右のこめかみの辺りから顎の真下にかけて、ピンク色の引きつれたような線状の痕がある。二か月前、事故で負った傷だ。横断歩道を歩いていた私に軽自動車が猛スピードで突っ込んできたのだ。この傷は地面に叩きつけられたときについたものらしい。母親達は、私がこの傷を気にして外に出たがらないのだと思っている。実際、初めのうちはそうだったのだ。
 
 事故の後、すぐに病院に運ばれ、様々な検査を受けたが、特段の異常は見つからなかった。私は顔の傷以外さしたる治療もせず、結局一ヶ月で退院した。あれだけの事故の割には奇跡だと、皆が口にした。でも本当は見えないところでちゃんと異常は起きていたのだ。

 窓ガラスに映った私が、右手でそっと自分の左腕を撫でた。ぞわっ、と産毛が立ち上がるような、えもいわれぬ快感が左腕を貫く。
 私は更に、今度はもっと強く擦るように左腕を撫でた。
「ああっ……」
 思わず声がもれる。今や快感は左腕からじわじわと毒が回っていくように全身に広がりつつあった。膝ががくがくして立っていられず、倒れ込むように横たわったがそれでも左腕への愛撫は止めなかった。
 肩から二の腕、肘の内側にかけて何度も何度も丹念に右手を這わせる。時に強く、時に優しく強弱を付けながら。その後は下腕部から指先にかけてをゆっくりと揉みほぐすように可愛がる。あまりに気持ちよすぎて、どこからが右手でどこからが左手なのか自分でもわからなくなってしまう。頭の芯の方が麻痺してしまったようで何も考えられない。ただ、自分の乱れた息づかいだけが耳の奥に響いていた。
 事故のショックは私の五感の一部を歪めてしまったらしい。あの事故以来、私は左腕に異様なまでの快感を感じるようになってしまった。

 私はそれまでに多少の男性経験はあったし、自分で快感を与える術も知っていたので、いわゆる肉体の快楽については知っていたが、これははそれまでのどの快感とも違っていた。
 普通の快楽であれば、絶頂という大きな波がやってきて、やがて終息に向かうものだが、それはただ延々と続く、終わりを知らない、底なしの快感だった。しかも、この快感は自分の右手で触った時だけに生まれ、他の人や物で刺激されても少しも感じないのだ。
 私は機械のように無心に愛撫を繰り返す。最初からこんなに気持ちよかっただろうか。何だか、回を重ねることに快感が増しているような気がする。
 このままでは狂ってしまう……そんな本能的な恐怖が頭をよぎった瞬間、私はひどく濡れている脚の間に手を伸ばし、そこを強く擦った。
「痛っ……!」
 悦楽の波が嘘のように引いていく。そう、私は左腕の快感と引き替えに、他の部分では全く感じなくなっていた。それどころか、かつて一番敏感だった部分は、今では私に不快をもたらすだけの無用の器官となってしまった。もっとも、この不快感が防波堤となってくれたからこそ、私はこれまで何とか日常に戻って来れたとも言えるのだが。

 ひどく疲れたので、そのままベッドに潜り込んだ。そういえば今日は夕飯を食べていないことに気づいたが、食欲は湧かなかった。左腕の快感が強くなればなるほど、他の快楽への欲求がどんどん鈍くなっていく。まるで私は脳を持たない水棲生物だ。冥く澱んだ水底で、思考することもなく、他の誰かを必要とすることもなく、ただ性の悦楽だけを貪りながら独りたゆたっているのだ。
 
 今日は朝から母がいない。確か町内会の旅行だ。父は遅くまで帰らないし、帰ってきても何も言わない。

 目が覚めたらもう昼だったが、例によって食欲はなかった。頭にぼうっと霞がかかったような感じがして、後頭部に鈍い痛みがあった。
 気がつくと私は右手で左腕をさすっていた。途端に全身の細胞が目を覚まし、歓喜をもって快楽を受け容れる。私が唯一生を感じられる時。何も考えられないようで、意識だけは妙に覚醒していた。躯の芯が溶けそうに熱い。昨日よりも快感の度合いが増しているような気がする。一体私はどうなってしまうのだろう?今日はこれを止められるのだろうか?そんな不安がちらりと頭をかすめたが、すぐに快楽のうねりの中に沈んでしまった。

 時計を見るともう真夜中だった。私は土嚢のようにずっしりと疲労の詰まった躯をよろよろと起こした。相変わらず頭が重くて何も考えられない。寒い、と口にしてみたが、どこか遠い国の言葉みたいに虚ろに響いた。
 
 私はふと窓の外を見た。そこでは凍てつくように白い、真冬の月の光が鈍色の雲を照らしていた。その様子はとても美しく、しばらくじっと月を眺めていた。
 やがて、私はそれをまだ美しいと思える自分が一寸嬉しくなり、それから何だか悲しくなって少しだけ泣いた。



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