火葬
「君に幸せになって欲しかっただけなのに」
長くて優しいキスの後、彼が私の髪を指で梳きながらそう呟いた。教室の窓から射し込む西日が強すぎて、こんなに近くにいるのに逆光を浴びた彼の表情は暗すぎて見えない。
私はそんな彼の言葉が可笑しいと同時にものすごく腹立たしく思えてしまう。
だって言っている事としている事があまりに違いすぎるから。
私に幸せになって欲しいなら、どうしてこんなキスをするのだろう、愛おしそうに私の髪を梳くのだろう、背骨が折れるくらい強い力で私を抱きしめるんだろう。
そういう事をするから、私があなたを忘れられなくて益々不幸になるんじゃない。教師の癖に、そんなことも判らないのかな。
棺桶に片足つっこんだような教師ばかりの女子校にやって来た、結構ルックスの良い新任教師。28歳、独身。着任直後はほとんどの生徒が彼に大なり小なりアプローチをかけていたと思う。放課後の質問責めから始まって、本気とも冗談ともつかないラブレター、家庭科の課題にかこつけて作る手編みのマフラー、半分は自己満足と友達へのお裾分けのためにつくるバレンタインのチョコレート・クッキー・ケーキその他諸々。
彼は律儀なまでにそれらの一つ一つに礼を言い、まるでお中元の返礼のように儀礼的な(でも感謝の気持ちを込めた)返事をした。彼は自分に好意を持ってくれる全員を分け隔てなく扱い、しかも決して驕ったりすることはなかった。一過性の疑似恋愛熱に浮かされた少女達は、一応の満足をそれぞれの胸に抱えてひとまずブームは去った。
私は何もしなかった。ただ、彼以外の誰にも知られないように、ひっそりと、でも熱く彼の背中を視線で灼いていた。だから皆は私が彼に全く興味がないのだと思っていた。
でも実際は全く逆だった。彼が私を選んだのは、唯一、私だけが彼との関係のその先までを正確に見通していて、それが彼にも判ったからなのだと思う。要は彼を一人の男として興味を持ち、躯で欲していたということだ。
私はそれまで誰かと寝たことはなかったが、関係を持つことに対するためらいも背徳感も恐怖もなかった。躯はある意味言葉と同じ、コミニュケーションのための媒体に過ぎない。問題はそこで語られる内容なのだということを直観的に知っていた。
「ごめん、すまない」
彼はもう一度私を凄い力で抱きしめる。でも私はされるがままになっている。力の強さがそのまま私への執着の強さだというのが、理屈ではなく、判る。彼の肌が熱くなっているのが着衣越しに伝わってくる。口下手だけど、躯で何かを伝えるのは得意な人だった。
「愛してるの?」
私は訊いた。
彼は何と答えたらいいのか分からず、困った顔で私を見つめる。主語がないから、質問の意味がつかめない。
愛してるの?
私を?
彼女を?
彼にちゃんとした恋人がいることはとうに分かっていた。でもそんなことはどうでも良かった。彼が私を愛して求めているのであれば、他に誰かがいようと全く興味はなかった。私達の関係は純粋に二人だけの問題であって、誰も入ってくる余地はなかった。
もっとも、彼女の方はそうは考えなかったようだ。彼女はどこで知ったのか、私の携帯に昼夜を問わず電話を掛けては罵詈雑言を浴びせた。自宅への無言電話や差出人不明の手紙もしょっちゅうだった。帰り道に待ち伏せされて、彼女のマンションに連れて行かれそうになったことも二、三度あった。
さすがに身の危険を感じて、彼に何度か相談したこともあったが、あまり意味はなかった。
「あいつ、もともとちょっとおかしいところがあって……まあ、無視してろよ。いい加減そのうち諦めるさ」
彼はそう繰り返すだけで、自分から何か結論を出すために動こうとはしなかった。おそらく彼女の前でも、私について似たような言い訳をしていたのだろうと思う。
本当におかしいのは、そうやって平然と二股を掛けている彼なのだと分かっていたが、私はそれを許した。三角関係に巻き込まれることの煩わしさや、捨てられるかもしれないという打算からではない。本当にどうでも良かったのだ。互いの中に二人だけの場所が確保されていれば、私はそれ以上何も望まなかった。
「愛してるのは君だけだったのに……!」
彼が、私の血塗れのセーラー服の胸にそっと手を触れる。中心の、赤黒く染まった部分は縦長にぱっくりと裂けて、その奥からは柘榴のようなピンク色の傷口が顔を覗かせている。
そうかな、本当に私だけを愛していたら、私はこんな風に死ななくても済んだんじゃないかな。でも別にそんなことはどうでもいい。
私と彼との記憶は、彼女の涙と引き換えに成り立っている。その代償がたまたま私の命だったというだけのことだ。それが重すぎるのか軽すぎるのかは、私には分からないけれど。
昨夜、彼女に呼び出された時のことを、私は思い出していた。
“午後8時、○○駅西口で待ってる。来ないと彼を殺して私も死ぬ。私は本気よ”
放課後、部活が終わって家に帰る途中、携帯に入ったメール。送り主はアドレスを見なくても分かった。
私はため息をついた。今度は攻撃対象を変えただけの、代わり映えのしない脅し文句。いつもどおり削除しようとしたが、「私は本気よ」の文字が目にちらついて、削除ボタンを押す手が止まった。
気がつくと、私は家に向かういつもの電車ではなく、○○駅方面に向かう電車に乗っていた。
それが間違いだったのだ。
これから最愛の男を殺そうという女が、一体私に何を言うことがあるだろう?
約束の時間よりも30分以上早く着いたが、彼女はすでに駅で待っていた。
私たちは駅から徒歩10分程度の、彼女のワンルームマンションに向かった。
部屋に入るなり、薄ら笑いを浮かべて彼女が言った。
「ごめんなさいね、突然」
脅迫まがいの呼び出しをしておいて、何がごめんなさいだと思ったが、黙っていた。
「私ね、彼の子がお腹にいるの。3ヶ月なの」
そう言って彼女は勝ち誇ったように自分のお腹を撫でた。
嘘だというのはすぐに判ったが、理詰めで追及しても無駄だろう。彼女はもう現実と虚構の区別がついていない人の眼をしていた。
「あなたが妊娠しようがしまいが、私にはどうでもいい事です。私にとって大事なことは、彼が私を求めているかどうかだけです。用事がそれだけなら私、失礼します」
それだけ言って、立ち上がった。
「あんたに何が分かるって言うのよ!」
背中に彼女の叫び声が投げつけられる。
分かる。涙で人の心が縛れないことくらいは。振り返って見た彼女の顔は、びしょ濡れで醜かった。一瞬、私の瞳に浮かんだ哀れみの表情が、彼女の殺意に火を付けた。
気がついた時、彼女の姿はどこにもなかった。隣には果物ナイフ胸に刺した自分の亡骸があった。ナイフの柄はまっすぐ天井を向いていて、まるで私の躯を養分にして育った何かの植物みたいだった。
私は思わず苦笑した。何だ、私も彼女と同じ、さもしい生き物だったのだ。こうして躯を失っても、まだこの現世に執着し、彼を求めてやまない。
彼はまだ私を抱きしめたまま、すまないとかごめんとか、そんな言葉を繰り返している。
今、私の姿を形作っているのは、私の魂なのか、それとも妄執が作り上げた幻なのだろうか。まあ、どちらでもかまわない。こうして再び、彼の前に立てるのだから。
「不幸になれって、言ってよ」
私は彼の耳元で囁く。
「私を愛して、縋って、泣き喚いてよ。俺を忘れられないで不幸になれって言ってよ」
そうすれば、躯を持たない私も此処に留まれる。
彼は一瞬呆けたような顔をして、それから泣きながら崩れ落ちていった。
向かいの窓に血染めの私が映っている。西日に照らされ、金色に縁取られた私の姿はとても綺麗だった。
燃えているようだわ、と私は声に出さずに呟いた。
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