■ 森の中 ■

 彼は夢を見ていた。
 夢の中で、彼は一頭の牛の姿をして、森の中を迷い歩いていた。
 森の中は木々が鬱蒼と茂っており、絹糸のような光が僅かに上空から射しこむだけで、昼間だというのに、木の虚のように暗く湿っていた。

 一体どれくらいの時間、こうして彷徨っているのだろう、躰はまるで砂でも詰めたようにずっしりと重く、じめじめとぬかるんだ地面にめり込んだ四本の脚を引き抜くのがひどく苦痛だった。その上、下草の荊がいやらしく絡みつき、細く鋭い棘で彼の脚に無数の切傷を創っていた。
 何故俺はいつまでも歩き続けているのだろう、どこかふかふかした苔の上にでも横になって、眠ってしまえればどんなに楽だろう。心身共に疲れ切っていた彼は、ずっとそのことだけをぐるぐると考えていた。
 が、一方で、その衝動を押しとどめ、彼の躰を前に進ませるものがあった。
 眠ったら終わりだと、本能が告げていた。
 彼は相当数の獣の気配や視線、息づかいを痛いほど感じていた。森の獣――狼や狐、その他獰猛な肉食獣達にとって、家畜の自分は格好の獲物だ。疲れ切って倒れたところを一斉に襲いかかるつもりなのだろう。
 下草に足を取られ、よろめいて大木に躰をぶつける。すりむいて皮膚から血が滲んだが、もはや痛みの感覚は鈍くなっていた。
 歩き続けなければいけない。
 でも、どこへ向かって……?

「最近、こんな夢を見るんだよ」
 彼――川端宏は、今朝方見た夢の内容を大塚に話して聞かせた。
 大塚はうーんと呻って腕を組み、暫く天上を仰いだ後、口を開いた。
「川端さん、そりゃあきっと、あんたの現実での姿をそのまんま夢で見てるんだよ」
「どういうことだ?」
 川端は怪訝そうに尋ねた。
「要は、迷った牛は今の会社を抱えたあんた自身で、森の獣ってのは債権者共だな。瀕死でも何でも、動いていればとりあえず様子を見るが、危なくなったが最後、がっと喰らいつくって寸法だ。フロイトが言うところの、潜在夢ってやつだよ」
「ほほう」
 川端は感心して大塚を見つめた。
 この男とは、20年以上も昔、今の会社を一緒に立ち上げて以来のつき合いだが、未だに正体のよく分からないところがあった。
 大学はおろか高校も満足に出ていないはずだが、意外に学があって大学出の自分よりも余程博識な上、目先が利いて、時期を得た投機で数億の金を稼ぎだしたことも一度や二度ではなかった。今の会社も、大塚の眼力がなければとうに潰れていたことだろう。
 これで妙な山っ気さえ出さなければ、と毎度のことながら川端は思うのだった。大塚にはどうにも腰の定まらないところがあって、せっかく興した会社も5年と経たずに川端に丸投げして、あれこれと手を出し始めた。華々しく成功したものもあるが、見事に散財した事業も少なくないのもまた事実だった。
「しかし、そんな夢を見るとは、川端さんの所もかなり厳しいのかい」
「まあ、今の時期はどこも厳しいから」
 笑って受け流したが、ずばり指摘された心中は穏やかではなかった。彼の会社はいわゆる下請けの建設業者だが、昨今の大手ゼネコンの倒産の煽りを受けて、青息吐息、今日不渡りを出すか、明日出すかというぎりぎりの状態の経営がここ何年も続いていた。同規模の商売敵がばたばたと倒れる中、それでも何とかここまでやってこれたのは、堅実で昔気質な川端の経営方針が、取引先や雇いの職人達の信頼を長年の間に勝ち得ていたからだろう。
「そうそう、牛で思い出したが、川端さん、例の牛丼屋の話、知ってるだろう」
「ああ、あれね」彼は言った。
 狂牛病騒ぎのせいで、大打撃を受けた某牛丼屋が、急遽シーフード中心のファミリーレストランにリニューアルするという話だ。
「あの店のロブスターの仕入れ、実は俺が一手に引き受けることになっているんだ。スリランカにいる友人が、現地で漁業会社をやっていて、そいつから独占的に輸入することになっている。何せ急な話で、輸入元と繋がりのある奴は殆どいなかったんだな。俺が一番に名乗り出たって訳だ」
「相変わらず目端の利く奴だな」
 川端は呆れ半分、尊敬半分で言った。
「ところがだ、いざ買い付け費用を借りようとしたら銀行がうんと言わない。そこで、あんたの力が借りたいんだが」
「何だ、悪いが金なら一銭も出せないぞ」
「いや、欲しいのは手形なんだ。担保にするんで2000万円ほど切ってもらえないだろうか。勿論借りは返す。半年後には2倍、いや3倍にして返そう」
「しかし……」
 かなりの高額だが、この申出には少なからず心が動いていた。彼自身、大塚の才気を高く買っていたし、相手は一応大手のチェーン店だ。みすみす取りはぐれる事はないだろう。それに上手くいけば半年で6000万円もの収入が得られるのだ。
 考え抜いた末、腹を決めた。
「わかった。2000万だな」

 その晩の夢の中、彼は昨夜と同様に牛の姿で森を彷徨っていた。しかも躰は痩せ、あちこちに血が滲み、泥が跳ね、艶やかだった毛並みは脂気が抜け、雨ざらしの毛布のようだ。
 ――もう、長くないな。
 自分でも、死期がいよいよ迫っているのが分かった。獣たちも輪を縮めて、飛びかかる機会を今かと窺っている。
「何だ、こんな所にいたのか」
 突然、聞き覚えのある声が耳に飛び込み、胸が波立った。薄闇の中、目を凝らすと、懐かしい牧場主の姿が目の前にあった。
「よしよし、怖かったろう、もう大丈夫だからな」
 そう言いながら嬉しそうに牛の頭を撫でる男の顔は、正しく昨日の大塚のものであったが、牛である彼には分かる由もなかった。
 彼は軽く嘶きながら男の大きな手に頭を擦りつけた。嗅ぎ慣れた干し草の匂いがした。これでもう獣たちに怯える心配は無くなったのだと思うと、ほっとして脚が萎えそうになった。男に従い歩いていくと、次第に光量が増え、森の中を明るく照らし始めた。出口はもうすぐだった。
「全く、出荷前に獣に食われたら、たまらんところだった」
 男が小さな声でぽつりと呟いたが、彼の耳には届かなかった。


←PREV | NEXT→ | ↑INDEX

ヒトコト感想フォーム
ご感想をひとことどうぞ。作者にメールで送られます。最大60字


ヒトコト
photo*by white garden