「ラウンド・ミッドナイト」

 それに気付いたのは午前二時を少し過ぎた頃だった。
 金曜日のこの時間、いつもならば二軒目、三軒目の客で大賑わいのこの店が、今日はぱったりと客足が途絶えた。グラスを磨くのにも飽き、眠気覚ましを兼ねてスツールの並びを直している時、僕はカウンターの一番奥の席の下に携帯電話が落ちているのを見つけた。客の忘れ物だろうが、今夜その席に座った客は一人しかいない。
「藤倉さんの携帯かな」僕は呟いた。
 藤倉さんは30代半ばくらいのサラリーマンで、うちの店の常連客だった。大概一人でふらっとやって来て、オールド・クロウのストレートを飲み、僕と少しばかり会話をして、2時間ほどで帰っていく。今日も11時頃やって来て、エルモア・ジェイムズやバディ・ガイ――僕達は50年代から60年代にかけてのブルースが好みなのだ――の話をして、1時頃帰っていった。
 僕はその携帯を拾い上げた。銀色のボディをした手のひら大の精密機械は、まるで普段の彼そのもののように飾り気がなく、地味な黒のストラップ以外は何のアクセサリーもつけていない。自宅の番号を呼び出して、教えてやろうかとも思ったが、勝手にいじって変に誤解されたら、僕や店の信用を失いかねない。彼が携帯を落としたことに気付けば、おそらく誰かが拾ったのかを確かめるために、この電話に掛けてくるだろう。僕は藤倉さんからの電話を待つことにした。

 午前二時半をまわっても、一人の客もやって来る気配がない。レコードを掛けているのに、小さなこの店はまるで真夜中の博物館のようにひっそりとしていた。
 こんな時、聴く者を記憶の奥底に沈ませるようなポール・ブレイのソロピアノはかえって気持ちを不安にさせる。僕はレコードを「オープン、トゥ・ラブ」からディジー・ガレスピーの「マンテカ」に替えた。鋭いナイフみたいなトランペットの音色が沈黙を切り裂く。これでいい。
 その時、携帯の着信音が流れた。
「藤倉さんかな?」僕はとっさにスピーカーの音量をゼロにして携帯を手に取った。
 しかし、着信画面を見て僕は訳が分からなくなった。受話器が上がったり下がったりしている電話のイラストの上には、「着信 ウェリッシュ・コーギー」という文字が浮かんでいたのだ。

 ウェリッシュ・コーギー?

 別にどんな名前で登録しようと人の勝手だし、僕自身あだ名で登録している奴もいるから、仮の名前での登録はそれほど珍しいことではないのだろうけど、なにゆえウェリッシュ・コーギーというメモリー登録をするに至ったのか、僕には想像がつかなかった。
 ともあれ、僕はこの電話に出て良いものか。ちょっと考えて、出るのはやめにした。いくら何でも本人からとしては突飛すぎる。
 電話はなかなか鳴りやまなかった。着信メロディはとても奇妙な和音でできた不思議な曲だった。僕はそのフレーズに聞き覚えがあった。おそらく最も着信メロディには不向きな類の曲。セロニアス・モンクの「モンクス・ムード」。

 セロニアス・モンク?

 わざわざ着信メロディにモンクを選ぶ人間がいることも驚きだったが、何よりそんなものが提供されているという事実に驚いた。僕の与り知らない需要と供給の世界だ。
 電話はいつまでも鳴り続けていた。
「留守電設定されてないのか?」僕は思った。だとすると、相手が諦めて切るまでこの電話は永遠に鳴り続けることになる。
 しかしその心配はなかった。電話はたっぷり一分間くらい鳴り続けた後、やっと留守番電話の機械的な音声に切り替わった。
 ピーという音の後聞こえてきたのは、藤倉さんとは別の男の声だった。
「藤倉、俺だ。ちょっと……まずい……また掛ける」追いつめられているという焦燥感が電話から滲み出てくるような声だった。あと二時間後に東京湾に沈められることになっている男なら、こんな声を出すかもしれない。
 電話の切れた後のツーツーという音を聞きながら僕は呆然とした。とても普通のサラリーマンのところにかかってくる電話とは思えなかった。時間的にも非常識すぎる。いや、そもそも藤倉さんが普通のサラリーマンだという根拠はどこにもないのだ。彼の服装と、物静かな態度から経験的にそう思いこんでいただけで、実際のところ僕は彼が何者かは何一つ知らないのだ。

 午前三時を廻っても、一人の客も来なかった。
 他人の携帯電話と二人きりでいるのは、とても不思議な感じだった。僕はまるで藤倉さんの幻が、僕の横でじっと佇んでいるような気がしていた。
 何となく落ち着かなくなった僕は、来るあてのない客のために、オン・ザ・ロック用の氷を無心に削り始めた。
 水晶玉みたいにつるつるの氷の球を三つほど作り終えた頃、突然携帯が鳴った。時計は三時二〇分を指していた。さっきと同じ「ウェリッシュ・コーギー」からだった。僕はもう一度スピーカーのボリュームを下げ、不思議な着信音が鳴り止むのをじっと一分間待ち続けた。
「藤倉、聞いてるんだろ? このままじゃ俺がどうなるかわかってんだろ……何とか言えよ」声は次第に半泣き状態になっていった。途中に鼻を啜る音もしていた。
 伝言はそこでぷつんと途切れ、店は再び海の底のような不気味な沈黙に包まれた。心なしか温度も少し下がったような気がする。僕は暖炉にくべる薪を探すみたいに、とにかくもっと明るくなれる音楽を探した。
 レコードをクインシー・ジョーンズの「ビッグバンド・ボサノバ」に替えた。賑やかでノー天気なビッグバンドの演奏が流れてくると、少し気持ちが楽になった。
 しかし音楽を明るくしたところで、この奇妙な状況が少しでも改善される訳ではない。僕は藤倉さんから電話が来るか、誰でもいいから客が来てくれることを切に願ったが、その願いは却下され、僕は閉店時間の午前4時が来るのをまんじりともせず待ち続けた。

 3時53分にまた電話が鳴った。僕はもう何も聞きたくなかった。スピーカーのボリュームも下げなかった。しかしそんな僕のささやかな抵抗を見透かしたかのように、声は前よりも一層大きくなっていた。
「藤倉てめえ! わかってんだよとっとと俺の話をきけよ頼むから……助けてくれ、なあ……お前が俺の……」声は途中で途切れた。もはや電話の向こうは泣き声とも怒鳴り声ともつかなくなっていた。
 まだ閉店には少し早かったが、僕は帰り支度を始めた。一刻も早くこの携帯から離れたかった。
 大急ぎでレジを閉め、おざなりに床のモップをかけ終えて、さあ店を出ようというその時にまた携帯が鳴った。僕は一瞬びくっとしたが、今度はもっと耳慣れたメロディーが聞こえてきた。
 しばらく耳を澄まして聴いていると、「峠の我が家」だと分かった。画面には「自宅」の文字が浮かんでいる。留守番電話に切り替わると、「もしもーし」という間延びした声が聞こえてきた。聞き慣れた藤倉さんの声だった。
「もしもし、藤倉さん?」僕は電話を取った。
「あ、八木さん? やっぱりそこに忘れていったんだ。どこに落ちてました?」
 まだ酔いが残っているのだろうか、心なしか声が陽気だ。
「カウンターの椅子の下にありましたよ」僕は言った。
「しょうがないなあ、我ながら……ところで、私あてに何か電話、ありました?」
 僕は一瞬口ごもった。
「すみません……店、たてこんでいて、さっき落ちているのに気がついたんですよ」
「そうですか。じゃあ悪いけど、明日取りに行くから、そちらで保管しておいてもらえます?」
「ええ、もちろん」僕は電話を切った。
 ロッカーに携帯を放り込むと、一目散にドアに向かった。店を出る間際、微かに携帯が鳴っているのが聞こえたが、僕は振り返らなかった。



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