■ Lip on Nap. ■


 金曜の夜、待ちぼうけを喰らった女ほど、見ていて痛いものはない。

 大体仕草がスマートじゃない。自分が独りであることに、妙に自意識過剰になってるせいか、そわそわして落ち着きがない。 でもって注文はいつも男まかせだから、相方を待っている間にアペリティフの一杯も頼むことすら満足にできやしない。まるで迷子になった子供みたいに所在無い。
 僕等はそんな女を温かく受け入れる程鷹揚じゃない。うちはそこそこ名のあるカジュアル・フレンチで、 料理やワインの味も勿論大切にするが、流れる音楽や店の雰囲気、テーブルクロスの一枚に至るまで細やかな神経を行き届かせている類の店だ。 ウェイターやソムリエに至っても同様、親密さと礼儀正しさの絶妙な距離を常に計りつつ接客にいそしむ。そしてとてもプライドが高い。だからいつもにやにやしながら意地悪く遠巻きに彼女を眺めている。連れが来るか来ないか賭けている悪趣味な奴だっている。
「お子様」は来るな、つまりそういう事だ。

 でも今夜の女は違った。シックな黒のドレスを身につけたその女は、一人で予約の時間ぴったりにやって来ると、慣れた様子でドリンクメニューを眺め、グラスのシャンパンを注文し、まるで自分の家にいるかのようにくつろいだ雰囲気で飲み始めた。
 彼女は20分程かけてゆっくりとシャンパンを飲み終えると、テーブル担当の僕を呼び止め、ワインのメニューを求めた。
「お連れ様がいらっしゃるまでお待ちにならなくてよろしいのですか?」
僕はお節介にも訊いてみた。メニューを渡そうと身体を屈めたとき、思いきり開いた胸元から、ドレスと同じ色の下着が覗いているのが見えた。下着の奥には申し分ない大きさの胸が深い谷間を形成していた。
彼女は僕の視線を余裕で受け止め、微笑みながら言った。

「雰囲気のいい店に、美味しい料理とお酒、それに良い音楽。これだけあれば、連れの男なんていなくても十分愉しめるものよ」
 真っ直ぐ伸びた長い髪を掻き上げながら、メニューをじっと見つめる。見るからに高価そうな金のピアスが揺れた。
「僕が貴女の連れならば、そのような台詞は言わせませんけどね」
 いつもは一線を越えない僕だけど、今日の相手には好奇心が勝った。
彼女はちょっとびっくりして、それから面白そうに僕の顔をじっと眺めた。
「僕がいない夜なんて、気の抜けたシャンパンみたいに味気ないって思わせてあげられるんですが」
 彼女は真っ赤に塗った唇の端を一寸上げて、ニッと笑った。
「今のジョークはつまらないけど、君の声は割と好みだわ。ねえ、賭けをしようか」
「何を賭けます?」
 確かに僕は20歳そこそこ、彼女はどう見ても20代後半は過ぎていたが、僕は「君」と呼ばれ、 あからさまに年下扱いされたことにむっとして言った。
「今が8時30分、もう30分も待ちぼうけよ。あと30分の間に私の連れが来なかったら君の勝ち。私の部屋まで、残りのワインを届けに来てよ」
 そう言って、彼女は悪戯っぽく笑った。
「貴女が勝ったら?」
 僕は訊いた。
「今日のワインは君のおごり」
 彼女が選んだワインはラフィットの82年、僕の半月分の給料に匹敵する。要は試されているのだ、僕は。
「いいよ、乗った」
 僕は半ばやけ気味に言った。

 それからの30分間、僕は上の空で仕事どころじゃなかった。おかげでシャンパングラスに白ワインをついでしまったり、 別のテーブルに料理を運んでしまったりとつまらないミスをいくつも繰り返した。チーフからも今日のお前は変だと窘められる始末だ。
 彼女はそんな僕をコメディ映画か何かのように面白がって見ている。畜生と思いながらも「あと10分」とつぶやく自分が悲しかった。 空いたテーブルの皿を下げ、カーヴから注文のワインを取ってくる。あと5分。
 僕が彼女と過ごす週末のシナリオをほぼ描き終えたその瞬間、一人の男が慌てた様子で入って来る声がした。
「連れがずいぶん先に来てると思うけど……ああケイ、やっぱり始めてたかい。何だ、ずいぶんいいワイン飲んでるな」 
 何が起きたかは振り向かなくても分かった。
僕は彼女のテーブルに近づくと、震えそうになる手を押さえながらその男にミネラルウォーターを注いだ。
「彼のおごりなのよ、このワイン」
 男は目を丸くしてまじまじと僕を見た。
「でも、これってかなり高いでしょう……どうして?」
「あなたがいつまでも来ないから、彼と一寸ゲームをしていたのよ。これは私の戦利品」
 彼女は嬉しそうにワインのボトルに指を這わせた。
「何だケイ、またそんなことしてたのか、すみませんね、やんちゃな女で」
 男は人の良さそうな笑顔を僕に向けた。30歳位のその男は、彼女の連れにしては余りにも物静かで大人しそうな奴だった。 こんな刺激のなさそうな奴を彼女が選んでいたのは意外だったが、そんなことは関係ない。彼女の週末のパートナーは僕ではなく、彼なのだ。
 彼との食事が始まり、テーブルに親密な雰囲気が醸し出されると、途端に期待していた自分が恥ずかしくなった。彼女ももう僕を見ることはなかった。
 やがて彼らは席を立ち、後には汚れた皿とナプキンだけが残された。僕はのろのろとテーブルを片づけた。 ワイングラスに残る口紅の跡が、やけに僕を腹立たしくさせた。
 ふと彼女の使ったナプキンを見ると、何か書いてある。広げてみると、そこには口紅で「090─22××─33××」 の文字とくっきり写ったキスマークが一つ。
 出口で預けた荷物を受け取っている二人の会話が耳に入った。
「今度の相手はあのウェイターなのかい? あまり年下をからかっちゃ駄目だよ」
「あら、私は別に兄さんみたいに手堅いおつき合いばかりが本物だとは思わないけど」
 僕は思わず彼女を見た。向こうもこっちに気づき、手をひらひらさせながら出ていった。
 どうやら僕には週末、新品のワインを彼女に届ける権利は残っているらしい。僕は頭の中のリストから、 彼女のためのとびきりのワインを選び始めた。





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photo*by coco*