「逆光線」



 目の前に、一人の男の写真がある。逆光で撮られているため、その姿は真っ黒なシルエットでしか分からない。闇を飲み込んだような影の暗さとは対照的に、輝く光のフレアが彼を丸く縁取り、輪郭線をぼやかせている。
 村上聡史のことを考える時、僕は、何故かいつもこんな写真を連想する。

 彼は成績はトップから悪くても10番以内。授業態度は真面目だが、つき合いも良く、いつ勉強しているのか見当が付かない。当然スポーツも万能で、1年の時からバスケ部のレギュラーの座は譲ったことがない。
 容姿もまたトップクラスで、髪を金髪にしたり、雑誌に載ったりする連中のような派手さはないものの、端整な顔立ちと、バスケットで鍛えられた、しなやかな鋼みたいな体躯とのアンバランスが目を引いて、いつもどこかで誰かの視線を浴びていた。
 でも彼は自分の数多の美点を少しも鼻に掛けるところがなく、むしろ、庶民のふりをする不器用な貴族のように、無理にそれを押し隠そうとしている感じすらした。

 僕が彼について知っているのはそれだけだが、多かれ少なかれ、殆どの生徒がこの程度しか彼を知らなかったと思う。常に誰かが彼を取り巻いていたが、コンスタントに傍にいる奴はいなかった。彼が試験で何位だったとか、試合でシュートを何回決めたとか、そういった情報は入ってくるが、彼自身の性格とか、何にどういった感情を抱くのかはさっぱり分からなかったし、誰も別に知りたいとも思わなかった。
 僕は彼と同じクラスだったが、今日まで口をきいたことがない。僕達はまるできっちりと棲み分けられた魚のように、同じクラスである以外何の接点も持たなかった。
 

「私、村上君に告白されちゃった」
 12月のある日、同じクラスのサツキが僕に言った。僕とサツキとは物心ついた頃からの腐れ縁だが、つきあいの長さが災いしてか、恋愛めいた気持ちは一向に浮かんでこない。その割には、互いと一緒に過ごす時間が誰より長く、まるで友達から一気に倦怠期の夫婦になってしまったような関係だった。
「冗談だろ?」
 僕はびっくりして言った。サツキは確かに良い奴だし、顔だって割と可愛い。でも、短気で好悪の感情が激しくて、しかもそれを口に出してはばからない。クセが強いので扱いにくい。彼みたいなタイプが好意を抱くような女の子には全く見えなかった。彼にはもっと、顔も頭も性格も、非の打ち所の無いような子が相応しいような気がした。
 そんな疑問が喉元まで出かかったが、口にはしなかった。所詮、僕は彼のことを何も知らないのだ。
「で、つき合うの?」代わりにそれだけ訊いた。
「まあね、私、彼のこと全然知らないし、それにかっこいい人だし」サツキは言った。
「全然知らない相手とよくつきあえるな」
「知らないからつきあえるんじゃない。知りすぎていると、あんたと私みたいな関係になるのが関の山でしょ」
「確かに」僕は言った。


 サツキが村上を振ったのは、二人がつきあい始めて丁度一カ月後の事だった。
 二人がつき合っていることはとっくにクラス中に知れ渡っていたから、皆あれこれサツキに詮索したが、彼女は適当にはぐらかしていた。結局、それぞれが勝手に憶測し、勝手に納得していた。
 僕一人が納得していなかった。サツキはノリは軽いが、イージーにつき合ったり別れたりする奴じゃない。そんなレベルの男は端から相手にしないだけの目は持っている。
「どうして村上と別れたの?」
 ある日の帰り道、僕は思いきってサツキに訊ねた。
 サツキは一瞬キッと僕を睨み付けたが、すぐに話し始めた。実際の所、彼女は僕に打ち明けてしまいたかったみたいだった。
「あんただから言うけど、彼、毎日私の家に電話してきたのよ。しかも毎回えんえん二時間一人で喋りっぱなし。で、いつも同じ事を言うの。俺は誰にも分かってもらえないとか、俺の本当の姿を誰も知らないとか。最後の方は支離滅裂になって泣き出すから、私、勝手に電話を切っちゃうの。だって彼、切られたことすら気づいてないんだもん。電話の向こうに私がいるかなんて、もうどうでも良くなってるのね、きっと」
「どうして切られたことに気づいていないって分かるの?」
「一番最初の電話の時は、さすがにまずかったかなと思って、すぐに受話器を取って掛け直そうとしたのよ。そうしたら、まだ電話の向こうで彼がぶつぶつ呟いてるのが聞こえたの。気味悪くて、今度こそ本当に切ったわよ」
 でも僕には少しだけ彼の気持ちが分かるような気がした。いつも誰かに注目されていながら、視線は自分の本質ではなく、周辺の明るい部分だけに向けられている。そんな風にして彼は一七年間生きてきたのだろう。それは誰からも特別注目されず生きること――僕等の大部分がそうであるように――よりも、キツい事のように思えた。
「だから別れたわけ? あいつと」
「そうよ。でも嫌いになったんじゃないわよ。むしろますます好感を持ったわ。ああこの人も私と同じように色んな事で悩んだり、するんだなって解ったし。もっと彼を深く知りたいと思った」
「だったらどうして?」
 僕がそう訊くと、サツキは深く溜息をついて静かに言った。
「彼と話しているとね、何だか彼の体の中に暗い穴が空いていて、自分もそこに引き込まれていくような、そんな気がするのよ。一緒にいると凄く疲れるの。彼の内側に溜め込まれた、どろどろした暗いものが滲み出てきている感じ。このままだと私まで引きずられて駄目になる、そう思ったから別れたのよ」
「それって凄く冷たい言い方に聞こえるけど」
「どうして? 同情半分でつきあい続けて、べったり頼られきったところで放り出すよりは、よっぽどましだと思うけど」
 僕は何も答えなかったが、内心は自分が彼女でもそうしただろうと思った。だってこんな時、ただの一七歳の女の子に何ができるというのだろう。


 村上が暴行事件を起こして無期停学となったのは、サツキと別れてからわずか5日後のことだった。
 夜道を歩いている女性に、突然襲いかかったのだという。女性の悲鳴ですぐに人が駆けつけたため、幸いにも未遂で済んだが、逮捕された当時、彼女の衣服は滅茶苦茶に引き裂かれていたらしい。

 誰もが「あの村上が?」と口にしたが、自分が彼についてどれ程知っているのか、あえて自問する者は一人もいなかった。
 品のない冗談を言うみたいに、下卑た笑いを浮かべて事件の裏話を勝手に創作する奴ら(村上はずっとその女のストーカーだったらしくてさあ……)。にわかサイコアナリストぶって、もっともらしく村上の心理分析を始める奴ら(ああいう優等生タイプに多いんだよね、突然キレる奴っての?)。何一つ知ろうともしなかった癖に、知ったような口をきく彼等の姿はあまりに醜悪で、腹立ちを通り過ぎて、むしろ滑稽だった。
 サツキは責任を感じて落ち込んでいたが、流石に自分から彼に会いに行く気にはなれず、僕が代わりに様子を見に行くことになった。

 門前払いされるかと思いきや、意外にもすんなりと通してくれた。彼は、少しやつれてはいるものの、それほど落ち込んでいないように見えた。
 想像していたとおり、彼の部屋はまるで何かの撮影用にこしらえた後、誰も何一つ手をつけたことがないみたいに、全ての物が整然とあるべき場所に収まっていた。そしてあまり生活の匂いというものが感じられなかった。近所の視線を避けているのか、分厚いカーテンが下りていて、昼間だというのに部屋の中は薄暗かった。
 僕はとりあえず、サツキからの伝言――とても心配していること、自分にできることがあるなら遠慮なく言って欲しい、等――を伝えた。
「そうか、心配してくれているのか。彼女には何だか悪いことしちゃったな」
 彼はそう言って少し笑った。とても婦女暴行事件の容疑者とは思えないくらい爽やかな笑顔だった。暗い夜道なんかじゃなく、昼下がりにその笑顔で話しかければ、被害者の女性も喜んで彼の前で服を脱いだろう。それともあえて、嫌がる女性の服を引きちぎりたかったのだろうか。
「彼女から僕のことは聞いた?」彼は言った。
「うん」
 僕は正直に答えた。何となく、僕がここに来ている時点で、既に彼には解っていたような気がしたからだ。
「僕をおかしいと思うかい?」
「わからない」僕は正直に答えた。
「僕はおかしいと思う。僕は昔からいつも注目をされていた。でも僕が普段何を考えているか、どういう人間なのか、そういうことに興味を持ってくれる人は一人もいなかった。僕は別に大した人間じゃない。汚いことも考えれば、いやらしいことだって想像する。でも僕が少しでもそういう面を見せると、皆困ったような顔をして、違う生き物でも見るような目で見るんだ。だから僕は自分の暗い部分を一切見せないようずっと努力してきた。だけど、努力すればするほど、かえって自分の内側がじくじくと膿んでいくのが分かるんだ。それが臨界点まで行くと、暴力の塊みたいなものが自分の中から吹き出てきて、気がつくと、部屋の中を滅茶苦茶に荒らしたりしているんだよ」
 淀みなく理路整然と話す彼の声は綺麗なテノールで、内耳に心地よく響き、僕はまるで「僕の弁明」というテーマの弁論を聞かされているような気分になった。彼は嘘を言っている訳では無いのだろうけれど、僕には彼の感情というか、心の叫びのようなものは全く伝わって来なかった。言葉を重ねれば重ねるほど、かえって空々しく聞こえた。でも彼があえてそのように自分を見せているのか、僕には分からなかった。

 僕は彼をもっとよく見ようとした。けれどもその時風がカーテンを揺らして、午後の刺すような光が背後から彼を照らし出したため、僕の目には銀色の光に包まれた、黒い影しか映らなかった。





                                      ←PREV | NEXT→| ↑INDEX
ヒトコト感想フォーム
ご感想をひとことどうぞ。作者にメールで送られます。最大60字


ヒトコト