「夏の蝶」

 予備校の夏期講習に向かう途中で水口由紀を見かけた。午前8時30分、ソープランドのひしめき合う福富町のメイン通りを歩いていた時のことだ。
 俺は目を疑った。彼女はうちの予備校の人気講師で、慶応の英文科に通う三年生だ。結構可愛い顔をしているのに、なぜか化粧気がなく、ファッションも田舎臭い。噂では地方の素封家の一人娘で、ものすごく溺愛されて育ったという話。要するに世間知らずのお嬢様で、こんなうらぶれた風俗街にはおよそ似つかわしくないタイプの女だ。
 しかし今俺の目の前で、裏通りの小さなソープの陰からこそこそと出てくるのは確かに水口だった。
 真っ黒なストレートヘアをトレードマークのカチューシャで止め、地味な白の綿ブラウスに、グリーンのフレアスカート。清楚だけどこの街ではかえって目につく格好。見間違えるわけがない。
 彼女はきょろきょろと辺りを見回してからメイン通りに出ると、桜木町方面に向かって歩き始めた。同じ方向に向かう俺は、目に付かないよう、少しだけ後ろを歩いた。別に後をつけているわけじゃないのに、何となくやましさがつきまとう。俺の頭の中で、「水口先生、夜の顔は風俗嬢?」の文字が、スポーツ新聞の見出しみたいに浮かんでは消える。我ながら下卑た想像に思わず苦笑した。
 大きなソープの角を曲がったところで、セッケンの匂いが優しく鼻腔をくすぐった。ソープから流れる排水の匂いだ。夜になれば、排ガスや酒の匂いにかき消されてしまうけれど、動き出す前のこの一時、街は優しい香りに包まれる。店は入れ替わっても、この匂いだけは昔から変わらない。この排水のどれかが彼女の身体を洗い流したのだろうか、と俺は下らないことを考えた。

 桜木町の駅に着くと、彼女は渋谷行きの東横線に飛び乗った。俺は同じ車両の、ちょっと離れた場所から様子を窺った。このまま予備校に向かうつもりだろうか、とふと考えたとき、俺は彼女の服装が昨日のままであることに気付いた。
 しかし彼女は横浜では降りなかった。俺はぎりぎりまで粘って飛び降りたが、彼女はぼうっとつり革に掴まったまま次の駅へと運ばれていった。確か彼女は地方出身で、日吉で一人暮らしをしているのだと聞いたことがある。きっと一度家に帰って着替えるつもりなのだろう。彼女の授業は二限目だから、上手くいけば5分遅れくらいで済む。
 案の定、水口は授業開始に5分遅れて入ってきた。今朝見たのとは違う、レモンイエローのワンピース。でもやっぱり野暮ったいことには変わりない。この暑いのに、膝下まであるスカート丈。地味な黒のパンプス。でもスカートからのぞく足首は、ぎゅっと絞ったみたいに締まっていて奇麗だった。ガキっぽいカチューシャなんか外して、もっと短いスカートを履いた方がずっと格好いいのに。

 俺がそう言うと、水口ファンの男達はいつも呆れたように言う。 「バカだなあ、そこがすれてなさそうでいいんじゃん。処女だよ絶対、水口先生ってさ」
 もし奴等に今朝見たことを話したら、きっと俺は地動説を唱えたガリレオみたいに糾弾されることだろう。
 俺は黒板に仮定法過去の例文を書く水口の後ろ姿をじっと眺めた。腰まである艶やかな髪。俺は目を閉じて、店でサービスしている彼女の姿を想像した。もちろんカチューシャは外している。
「……じゃあ、これを訳してもらおうかな、新井君」
 突然名前を呼ばれて俺はうろたえた。簡単な例文だと分かっていても、焦りで頭が働かない。しばらく黙っていると、彼女は溜息をつき、別の奴を指した。俺は恥ずかしさでその後も全然講義に集中できなかった。

「どうしたの、今日、全然講義聞いてなかったでしょ」
 授業の後、廊下で水口に呼び止められた。彼女はちょっと顔をしかめて俺を見つめた。俺より10センチくらい背が低いので、少し見上げる形になる。顎の下から喉にかけてのラインが少し張る。
「新井君、東大志望でしょ。まだ二年だけど、この夏休みに頑張らないとかなり厳しいぞ」
 彼女はそれだけ言うと俺の脇を通り過ぎようとした。すれ違いざま微かにセッケンの香りが漂う。朝の排水溝からたち上るのと、同じ匂い。その匂いを嗅いだら、訳もなく苛立った。
「朝から福富町をうろついている人に言われたくないですね」
 俺は彼女に背中を向けたまま言った。
「何のこと?」
 声が固い。振り返ると、水口が声と同じくらい表情を固くして立っていた。ビンゴ。
「今朝、ソープの脇から先生が出てくるところを見たんだ。おつとめ帰りにまたバイトって訳? 結構タフなんだね」
 腹立ち紛れの言葉が核心を突いていたことに気をよくして、俺は一気にまくし立てた。
 彼女は一瞬ポカンとした顔をして、それからゲラゲラと笑い始めた。
「な……何笑ってんだよ」
 俺は憮然として言った。
 彼女はにやっと笑って俺を見た。さっきまでとは全然違う、挑戦的な目つき。
「ま、いずれにしろ口止め料は払わにゃならないわね。君、夕方空いてる?」
 今度は俺がポカンとする番だった。
「6時に駅前で待ってるから」
 そう言うと、彼女はさっさと講師室へ向かった。

 午後6時10分、俺達は横浜駅近くの小さな居酒屋にいた。
「ビールでいいでしょ。あ、生中二つね」
 彼女は俺の返事も待たずに店員に声を掛け、手際よく注文を済ませる。五分後にはテーブルの上は皿で溢れた。
「ま、とりあえず乾杯」
 彼女はそう言ってジョッキを合わせた。ビールは冷えすぎていたが、汗をかいた身体には丁度良かった。
「水口先生」
「ユキでいいよ」
 俺の言葉を遮ってユキが言う。
「ユキの……これが口止め料?」
「ううん、口止めってのはただの口実。これは単に、私が約束をドタキャンされたから、つき合ってもらってるだけ」
 ユキはホッケの丸焼きをつついて、ビールを美味そうに飲んだ。
「ねえ、何で今朝あんなとこにいたの」俺は訊いた。
「バカね、それを言わせないための口止め料じゃない」
「でも今口止めは口実って」
「うるさいわね、知りたきゃ自分の頭で考えなさいよ」
 普段のユキからは想像もつかないしゃべり方。ファンが聞いたら卒倒するだろう。でも俺には息のあったパス交換みたいな会話が気持ちよかった。
「ユキ、不倫してるんでしょ」あの安ソープの横は確かラブホテルだ。彼女はそっちから出てきたのかもしれない。ホテル、口止め。俺はカマをかけてみた。
 平然としていればいくらでもごまかせるものを、苦々しそうにユキが俺の頭を小突く。
「黙れ、童貞」
 本当のことを付かれて俺はむっとした。
「何だよ、不倫なんて格好悪いなあ」
「格好悪いのは不倫のせいじゃないわ。元々こらえ性がないのよ、私」
 彼女はそのままとろんとした目つきで遠くを見つめた。俺は何となく面白くなくて、蚊に食われた跡をぼりぼりと掻いた。
「そう、それみたい」
 唐突にユキが言う。
「何が?」と俺。
「蚊に刺されたときって、痒くても我慢して放っておけば、そのうち痒いのっておさまるじゃない。でも、一度掻いちゃうと、後は掻くほどかえって痒くなるでしょ。そんな感じなの、誰かを好きになるって」
「ふうん」俺はよく分からないまま相づちを打った。
「でね、最後にはいつも私、掻き壊して血が出ちゃうんだよね」
 ユキはポツリと言って、頬杖を付いた。ワンピースの胸元が空いて、わずかに胸の谷間が覗く。俺は慌てて目を逸らした。
「頭が痛くなるのよね、これ、便利だけど」
 ユキはそう言ってカチューシャを外し、冷えたジョッキを頬に当てて気持ちよさそうに目をつぶった。
俺はその顔に見入っていた。酔って上気した顔に、長い前髪が垂れ下がっていて、まるで風呂上がりみたいに艶めかしい。その男の前でもこんな顔を見せているのだろうかとぼうっと考えていると、彼女を安ホテルの小汚いシーツに押し倒した男に対して次第に理不尽な怒りが湧いてきた。
 店を出たのは九時を少し過ぎた頃だった。ユキは結構酔っていて、僕の腕に掴まりながら駅まで歩いた。時折布地越しに彼女の柔らかな胸が当たる。その度に少し息が止まった。
「家まで送ろうか?」
 俺が意を決して言ったのと同時に、彼女の携帯が鳴った。するとユキはスイッチが入ったみたいに背筋を伸ばし、素早く携帯を取り出して話し始めた。しばらくして、彼女はこっちを向き、受話口を押さえながら「ごめん、長くなりそうだから先に帰って。今日はありがとう」と小さな声で言った。仕方なく俺は一人で帰った。

 翌日、ユキは昨日と同じワンピースを着てやって来た。
「水口先生、朝帰りかな」後ろの席の女子がひそひそ声で話している。俺は昨夜ユキとの別れ際にかかってきた電話のことを考えていた。知らないうちに頬が熱くなるのが分かる。
 講義が終わると、俺は教室を飛び出し、トイレで顔を洗って火照りをしずめた。しかし講師室へ向かう途中のユキと、廊下でばったり出くわしてしまった。俺はまた体温が上がっていくのを感じた。
「痒くなったんだ?」俺は言った。
 彼女は一瞬「?」という表情をしたが、すぐに言葉の意味を理解して、少し困ったような笑顔を見せた。
「そんなに掻いてると、また血が出るよ」
 俺はなるべく感情を込めずに言った。
「かもね」
 ユキは俺をまっすぐに見つめて言った。その悪びれない態度が腹立たしく、またそれに対して言い返す言葉を自分が何も持たないことが余計に腹立たしかった。
「でも、どうしようもないのよね」彼女は俺から目をそらすと、白いリノリウムの廊下を見つめながら呟いた。
 ユキの言葉は弱った蝶みたいに俺達の間をふらふらと彷徨った後、どこにも行かずに消えた。もう言うべきことはなかった。俺は彼女の脇を通り過ぎた。
 すれ違いざま、また例のセッケンの香りがふわりと漂った。それはとても甘やかな香りだったけど、何故だか俺は僅かに吐き気を覚えた。

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