「ハレノソラシタ」


 おれには才能がない。15の時にテナーサックスのマウスピースをくわえて以来、7年間ずっとそう思い続けてきた。
「才能ねえなあ、お前。サックスじゃなくて女抱いてるみたいだぞ」  
16の時、バイト代をはたいて買った質流れのサックスを抱えてストリートデビューしたおれに、そんなヤジを飛ばした酔っぱらいがいた。
 当時のおれはテナーサックスのでかい図体に振り回され、きちんと立っていることすらままならなくて、今思うと、その姿は太った中年女とベッドの上で悪戦苦闘している様子に似ていなくもなかった。姿が茶番なら中身も推して知るべし、茹ですぎたパスタのようにふやけたおれの音に、足を止める酔狂な通行人など一人もいなかった。
 車道を挟んだ向かいの路上では、人だかりの中、おれより4、5歳ほど年上の男が、おれが4、5回生まれ変わったくらいじゃ到底届かないような凄いテクニック(と、当時のおれは思った)でビバップを吹いていたのを覚えている。
 22になった今、スタイルだけはようやく様になってきたけれど、肝心の演奏は16のあの夜から1ミリも進歩していない気がしてならない。酔っぱらいのオヤジは正しかった。おれはあの時女でも抱いていればよかったのだ。そうしたら今頃とっくにテナーサックスなんか川に投げ捨てて、幸せに暮らしていたことだろう。

「遅かったね、マコト」
 ライブがはねた後、最後まで楽屋に残っていたおれが一人裏口を出ると、いつものように知美が待っていた。知美は同じ大学の同期で、うちのバンドの元マネージャーだった。おれとつき合いだして居づらくなったためにバンドは辞めてしまったが、こうしてライブの時には来てくれる。このバンドに入った唯一の収穫といったら、知美と出会えたことくらいだ。
 おれたちは駅までの道を一緒に歩いた。
「何でスーツなんか着てるんだよ」おれは言った。
「だって就職セミナーの後だもの。ねえ、マコトは就職活動しないの?」
「しない」
「じゃあプロになるの?」
 おれは言葉に詰まった。
「煮え切らないんだから。就職しないなら、プロになるしかないじゃない。それとも一字違いでプーになる?」
「なりたくても才能がない」おれはきっぱりと言った。
「そうかなあ。マコトの演奏、いいと思うけどな。激しくてかっこよくて」
 のほほんとした口調で知美が言う。
「お前に何が分かるんだよ」おれが投げやりに言うと、知美はまたかという風に肩をすくめた。もう何度も繰り返されてきた会話だった。
 おれは先刻、ドラムスの村上とやり合ったことを思い出していた。
「てめえがプロになれるかよ、この猿真似野郎が。才能なんかこれっぽっちもねえくせに!」
 最初はただ、今日の演奏の反省会をしていただけだった。それが次第に熱を帯び、互いのプレイのけなし合いへと変化し、最高潮に達したとき、奴の口からその言葉が飛び出した。
 おれは思わず立ち上がって奴を睨み付けた。が、その途端、急速に怒りは萎え、苦い水みたいなものがおれの心の中を満たしていった。奴はおれが常日頃自分に言い聞かせていることを代弁したにすぎない。奴は正しい。おれはデクスター・ゴードンを真似ようとしているだけの、ちゃちなイミテーションでしかないのだ。

 デクスター・ゴードンのサックスを耳にした瞬間、おれは細胞の一つ一つが共鳴し、それまで眠っていた感覚が呼び覚まされるような音、自分を構成していたものが根底からひっくり返されるような音というものが確かに存在することを知った。
 アルバム『Go』を聞き終えたとき、おれは自分の培ってきたものが根こそぎ奪われ、カラッポになった俺の中に彼の音だけが残されたような感覚を覚えた。以来おれは彼の音に近づこうと必死で吹き続けた。しかしどんなに努力しても、それは真夏の逃げ水みたいに、いつもほんの少し先にあって、決しておれの手が届くことはなかった。

「そうだ、今週の日曜日、私の誕生日なの、覚えてた?」ずっと黙り込んでいるおれの気持ちを逸らそうとしたのか、突然知美が話題を変えた。
「ああ、もちろん」おれは言った。もちろん覚えていない。それは知美も分かっている。ここで「今週の日曜日は何の日だ?」などとつまらないカマをかけて、おれたちの関係を無駄にこじれさせないのがこいつのいいところだ。
「プレゼント、何がいい?」一応訊いてみる。
「何でもいいよ、マコトの財布が音を上げない物ならね」知美は笑ってバイバイと手を振り、改札の向こうに消えていった。
 そうは言っても彼女に貴金属の一つも買ってやれないというのも情けない。金曜の練習帰り、おれはデパートの貴金属売り場に足を運んだ。が、品物の大きさとアンバランスな値段の高さにおれの財布は音を上げっぱなしだった。
 ふと、ショウケースの隅に飾ってある、小さなピアスが目に入った。シルバーで丸く縁取られた真ん中に一粒ダイヤが入ったそれには、3000円の値札がついていた。
「随分安いダイヤですね」
 おれはいつの間にかケース越しに立っていた男の店員に言った。
「こちらはジルコニアという合成石で、ダイヤではないんです。よく似ていますけれど」
 彼は優しく言った。
「要はダイヤの偽物ってことですか」
 おれがそう言うと、彼は少し思案するような顔をしておれの目を覗き込んだ。よく見ると彼の顔はちょっと小曽根真に似ていた。
「その言い方は少し違いますね。確かにジルコニアはダイヤの代用品として用いられることが多いですが、それ自体独自の美しさを持つれっきとした宝石です。ジルコニアは本物のジルコニアであって、何の偽物でもございません」
 そう言って彼はおれの手にピアスを載せた。鳩の瞳ほどの大きさの透明な粒は、蛍光灯の光を浴びてちらちらと複雑な輝きを放っている。実際、その石はおれにはダイヤに遜色なく映った。
「お客様が美しいと思われたなら、それは本当に美しいのです。本物か偽物かなどという議論は、無粋な邪推にすぎません」
 半分ペテンにかけられたような、釈然としない気持ちを抱えつつも、おれはそのピアスを買った。そもそもおれの壊滅的な経済状況では、他に選択肢はなかったのだ。

  デパートを出てぶらぶらしていると、突然調子っぱずれなブルーズハープの音が耳に入った。気がつくとおれは駅前の円形広場に来ていた。そこはストリートミュージシャン達のメッカで、いつも思い思いの楽器を弾いている連中で露店市のような賑わいを見せている。かつてはおれもこの場所の一員として明日のビッグネームを夢見ていたが、バンドの活動が忙しくなってからはすっかり足が遠のいていた。
 おれは手近なベンチに腰掛けた。向かいでは15歳くらいの男が、フォークギター片手に“ダイヤモンドよりも強い愛”について唄っている。高音部のボーカルは外しているし、コード進行も滅茶苦茶で、普段のおれなら鼻で笑ってしまうような演奏だったが、今日は笑う気にはなれなかった。自分にしか伝えられないものが確かにあるのだと主張する、彼の真剣な表情が眩しくて、ちょっと目を細めた。
 おれにとって、サックスを吹くことが苦痛になっていったのはいつからだろうか。他人に聴かせることの喜びや充実感よりも、理想に追いつけない落胆や失望を味わうほうが多くなったのはいつからなのだろうか。
ふいにさっきの店員とのやりとりが頭に浮かんだ。 おれだってバカじゃない。ジルコニアはダイヤじゃないし、ましてやダイヤに敵うはずがないことくらい分かっている。でも、ジルコニアの光が美しいのは――美しいと思う人間がいるのは――そのなかに真の美しさの欠片くらいは存在するからに違いない。そう考えたら――いけないだろうか?
 それにおれは大切なことを見落としている。おれはまだ光ってすらいないのだ。まずは光る努力をしなければ。その上でおれがダイヤかジルコニアかただの石ころか、それを決めるのは、きっとギャラリーだ。
 おれは立ち上がり、空いている場所に陣取って、テナーサックスをケースから出した。右隣では若い男の二人組がフォークギターを鳴らし、左側ではロックバンド風の3人組が、派手にディストーションを効かせたサウンドをアンプ越しに流している。
 おれは深く息を吸い、マウスピースにありったけの空気を注ぎ込んで第一音を吹き鳴らした。耳が痛くなりそうな大音量のF#に、フォークの二人組がぎょっとした顔をおれに向け、ロックの連中も一瞬ギターを弾く指を止めた。通行人達は、まるで銃声でも耳にしたかのようにはっと足を止めてこちらを見た。
 おれは肺が壊れそうな勢いでビバップを吹いた。様々な連中が好き勝手に演奏しているストリートでは、とにかく太く大きな音を出すことが何よりも大切だ。どんなに凄い音を出しても、雑音にかき消されて通行人の耳まで届かなければ何の意味もない。
 おれの音を聞いてくれ。いや、他の奴の音なんか聞かせない、おれの音だけを聞け!
 夢中で指を動かし、リズムを刻んでいるうちに、そのことばかりがぐるぐると頭の中でリフレインし、他のことは何も考えられなくなった。デクスターの音に到底かなわないことも、自分に才能がないことも、もうどうでも良くなっていた。
 アドリブで1クール吹ききってから顔を上げると、いつの間にかおれの周りには人だかりができていた。フォークの二人はどこかに消えており、ロックの連中は白けた顔で座り込んでいた。
 おれはにっこりと微笑み、ギャラリーに軽く会釈してから、今度はゆったりとスロー・バラードを吹き始めた。

「すごい、マコト。ありがとう。高かったでしょ」
 日曜日、アパートに来た知美にピアスを渡すと、彼女はこっちが申し訳なくなるくらいの喜びようでおれに抱きついた。
「ごめん、それ、ダイヤじゃなくてジルコニアなんだ」おれは言った。
「いいじゃない。私、ジルコニアって好きよ。安いしキレイだし」
 知美は早速鏡に向かってピアスをつけ、満足げに微笑んだ。
「それはどうもありがとう」おれはぼそりと言った。
「ん? 何か言った?」知美が振り向く。
「いや、何でもないよ」
 おれは壁に貼ってあるデクスターのポスターをちらりと見上げ、心の中でそっと親指を立てた。


←PREV | NEXT→ |  ↑INDEX




ヒトコト感想フォーム
ご感想をひとことどうぞ。作者にメールで送られます。最大60字


ヒトコト