「SWITCH」



 バイクで事故って以来、僕の目はちょっとおかしい。といっても目を開けている分には以前と変わらない、問題は目を閉じている時。
 僕は自分の視界が閉ざされている間、他人の目に映るものが見えてしまう。

 気付いたきっかけは意識が戻ってすぐ、まばたきの際、時折ぼんやりとした残像が見えたこと。それは普段のまばたきではほとんど見えなかったが、ペースを遅くするほどくっきりと写る。ぎゅっと目をつぶると、いきなり視界いっぱいに目を閉じた僕自身の顔が広がった。驚いて目を開けると、怪訝そうに僕をのぞきこむ母と目があってしまった。
 何度も目を開けたり閉じたりして試してみると、無数のカメラを切り替えるみたいに様々な視界が目蓋のスクリーンに映った。薄暗い病院の廊下、ナースステーション、手術台に横たわる誰かの内臓。まるで受像機だ。

 目を閉じるたびに変化する上に、寝ている時以外は見えっぱなしの視界に最初は頭がおかしくなりそうだったけど、慣れとは恐ろしいもので、僕はこの面倒な視界に徐々に順応していった。
 まあ、慣れたといってもこの厄介な能力がほとんど障害に近いことは変わりなかったが。


「もう学校に来ていいの?」
 教室に入ろうとしたところで、後ろから声が飛んできた。振り返ると隣のクラスで幼なじみの船橋夏見がこちらに向かって走ってくる。
「ああ。どこも異常なしっていわれてから、家にいると家族の視線が冷たくてさ」
「バイクは駄目になったのに、かすり傷くらいで済むんだもん。氷泉君、これで一生分の運を使い果たしたね」
 夏見が僕を見て笑った。ちょっと吊り目がちの大きな瞳がきゅっと細くなる。一週間前、意識が戻った僕を覗き込んでいた時にはぼろぼろと涙をこぼしていたことなんかもう忘れたみたいな表情。
「でも一応頭打ってるんだから、ちょっと変だと思ったらすぐに病院に行った方がいいわよ」
 最後に心配そうな本音を少しだけ見せると、夏見は自分の教室に入っていった。僕は複雑な気分になる。だって「ちょっと変」なことはもうとっくに起こっていたのだから。
 

”5時頃音楽室に来て。一緒に帰ろう”
 放課後、夏見から僕の携帯にメールが入った。合唱部のコンクールでピアノの伴奏をすることになっている夏見は、本番が近くなってからは部活の後も個人練習にも余念がない。
 5時を10分ほどまわった頃、僕は3階の一番端にある音楽室に向かった。途中、理科室の前を通りすぎるとき、まだ誰か残っているらしく、人影が動く気配がした。何気なくそちらに目をやると、開いたカーテンから射し込む西日が瞳を直撃した。僕は眩しさに思わず目を閉じた。

 だしぬけにピアノを弾く夏見の、斜め上からのバストショットが視界に映る。と、すぐにズームアップして彼女の横顔が大写しになったかと思うと、首筋、胸元と身体のラインをなぞるようにゆっくりと降りていく。視線は鍵盤を叩く指先をしばらく彷徨った後、再び下へと移動する。腰の曲線を滑り降り、大腿の間に釘付けになったあたりで思わず目を開けた。
 僕の心臓は壊れそうなくらい強く脈打ち、下半身は激しく勃起していた。

 僕たちは同じものを見ていても、同じものが見えている訳じゃない。僕の知っている夏見はよく言えばボーイッシュ、悪く言えば女らしさの欠片もない女の子だったが、今僕の視界に映っていた彼女は、別人のような魅力を湛えていた。楽譜を見つめる真剣な瞳、ちょっと上を向いた鼻、薄い唇の一つ一つが痛いくらいに僕の性欲を刺激した。前から夏見のことを可愛いとは思っていたけど、そんな気持ちとは比較にならない程に激しく凶暴な衝動が身体を駆け巡る。たまんねえくらいいい女だぜ。滅茶苦茶に犯して全身嬲り尽くしたい絶対この女だって俺にやられたがってる壊したい壊したい壊――。

 ――違う、これは僕じゃない。この視界を持っている誰か別の――。

「氷泉君、どうしたの? 顔色悪いよ」
 僕を待ちかねて探しに来た夏見の、不安げな声にはっと我に返る。
「もしかして、事故の後遺症?」
 困ったような表情のいつもの夏見。その上に、さっきの悪魔的な魅力を持った夏見の顔が重なる。そんな場合じゃないと分かっているのに、僕の下半身は勝手に反応する。
「何でもない。ちょっとふらついただけ」僕は彼女の方を見ないようにして言った。
 再び窓の向こうに目をやると、高層マンション群が、半ば沈みかけた夕陽を背に、黒い卒塔婆のようにそびえ立っている。僕はさっきの視界を反芻してみる。アングルやズームの具合からいって、あれは多分望遠レンズ越し、逆光で見えない無数の窓の奥にいる誰かのもの。
 ストーカーという単語が頭をよぎる。しかも最高に質の悪いヤツ。険しい僕の表情に何か感じたのか、夏見が僕の制服の袖をぎゅっとつかむ。僕はそっと夏見の肩を抱いた。彼女をどこかの変態の玩具にするわけにはいかない。


 その日以来、僕はなるべく夏見の側を離れないようにした。学校は必ず一緒に登下校し、寝る前には必ず携帯に電話を入れた。
 これじゃあまるで僕の方がストーカーみたいだが、この瞬間も、そいつは邪な視線で夏見の身体を汚しているのかもしれないと思うと、いてもたってもいられなかった。
「何か最近よく目を閉じてるけど、目が痛いの?」
 僕が夏見の側にいる理由はもう一つ、彼女の近くにいれば再び奴の視線とスイッチできるかもしれないという期待からだった。そうすれば視界のアングルから、どこから見ているのかを知ることができる。しかしそれ以来、僕が奴の視界を捉えることはなかった。僕は中途半端な能力がもどかしい反面、少しほっとした。
 だってまたあの視界で夏見を見たら、僕にまで歪んだ欲望が伝染してしまいそうな気がしたからだ。
 

 ボディーガードを始めてから一月ほど経った放課後、最初のうちは気がつかないふりをしてくれていた夏見がとうとう痺れを切らして僕に詰め寄ってきた。
「別に、妙にあたしにくっついてることは嫌じゃないよ。でも氷泉君のそれって、好きだから一緒にいたいとかってのと全然違うんだもん。ひどく周りを気にしてびくびくしてる感じ、何なの?」
 僕は肩を落とした。「わかった。でもここじゃ話せない」
 僕達は人気のないところを探し、音楽室に移動した。カーテンを開けようとする夏見を制し、仄暗い夕闇の中で打ち明ける。僕の視界の異変のこと、あの日夏見を見ていた狂った視線のこと。夏見の表情がこわばっていく。
「……じゃあ、あたし狙われてるの?」
 夏見が口元に笑みを浮かべて、泣きそうな声でつぶやく。
 ――笑みを浮かべて? 

 僕は夏見の顔をじっと見つめ直した。泣きだしそうな表情に、別の顔がオーバーラップする。やがて焦点が合うみたいに夏見の顔が一つに収斂すると、あの夕方と同じ、蠱惑的な表情を浮かべた夏見がいた。
 目の前の唇が、瞳が、全てのパーツが今、俺を誘っている。俺の頭がスパークした。何だ、見えていなかったのは俺の方じゃねえか。待ってろ今俺のドロドロを全部吐き出してやるよ。
 勢いのままに押し倒し、制服のシャツを引きちぎる。露わになった胸を思い切りわしづかみにする。生のハンバーグを握りつぶすみたいな感触。
「やめて!」
 耳元で乾いた音が鳴り、右頬がひりついた。闇雲に暴れる腕をよけようと体を起こすと、グランドピアノのボディに映る自分と目があった。
 夏見に馬乗りになっていたのは僕とは似てもにつかない、三〇代くらいの大柄な男だった。太った締まりのない身体、肩まで伸びた不潔そうな髪。油膜が張ったように濁った瞳がぎらぎらとこちらを見返している。
 ――誰だ、こいつ?
 弾かれたように我に返り、慌てて彼女を抱き起こした。今のは僕じゃない。それにこの衝動だって僕のものじゃない。まるであのストーカーが僕に乗り移ったみたいに……。
 不意に閃くものがあった。本当に僕は奴の視界を見ていなかったのだろうか? 僕が気付いていないだけで、実は何度もスイッチしていたのだとしたら……時間にして刹那、しかし無数に繰り返されるまばたきの残像が、サブリミナルのように僕の理性を少しずつ侵蝕していたのだとしたら?
 僕はもう一度夏見の方を見た。乱れた髪を頬に張り付かせて怯える姿がピントをぼかしたように大きくぼやけ、再び像を結ぶ――笑ってやがる。泣いた真似なんかしても俺にはちゃんと分かる。マジでたまんねえくらいいい女だぜ。今度こそ望みどおりに死ぬほど攻め立ててやる。
 僕の中で二つの意識が交錯した。「誰か」の意識は植物のように僕に絡みつき、今にも僕を取り込もうとしている。緩やかに僕の自我がほどけていく。僕は……俺は……。
 ――駄目だ!
 流されそうな意識を必死で奮いたたせて体を動かし、窓を開け、窓枠に脚を掛けた。僕が僕でなくなる前に、僕自身を消してしまうこと。それしか夏見を傷つけない方法を思いつけなかった。ぐらりと身体が揺れて、景色が上に流れていく。と、ごん、と頭の奥で鈍い音がして、僕の意識は一直線に墜ちていった。


「……くん、氷泉君、しっかりして!」
 目を開けると、あの日と同じ、泣きはらした目で覗き込む夏見の顔があった。あの日って? 僕がバイクで事故った日……僕って? 僕は氷泉マサユキ。僕は僕……。
「ちょうど植え込みの上に落ちて……良かったあ」
 気がつくと「誰か」の気配はすっかり消えていた。夏見の指が僕の頬にそっと触れる。甘い匂いに思わず目を閉じる。が、違和感を感じてすぐに目を見開く。
「……見えない?」
 頭を打ったショックのせいだろうか。僕の視界は再び闇を取り戻していた。何度も目を閉じて確かめる。
 闇、景色、闇。間違いない。ほっとして体中の力が抜けた。これでもう、誰かの視界に侵されることもない。
 僕は夏見に微笑みかけた。あんな酷いことをした僕の側にいてくれる彼女への愛おしさがこみ上げる。
「たまんねえくらいいい女だな、お前」
 僕は小さな声で呟いていた。
 



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