「key」


 小さな鉄のカタマリに、赤いリボンを結んだら、プレゼントの一丁上がり。

「ハッピーバースデー、浩一」
 私はキーホルダー用の穴に結わえ付けたリボンの端っこを持って、銀色の小さな鍵を浩一の目の前でゆらゆらと揺らした。
「これ、ひょっとしてプレゼント?」
「そう、私の部屋の鍵。大事にしてね」
「何とまあ、安上がりだこと」 
「失礼ね、一応若い女性の部屋の鍵なのよ。しかも、あんたのこの6畳一間の安アパートと違って、エアコン完備の1LDKマンションなんだからね。有り難く思え」
 素っ気ない言葉とは裏腹に、浩一は結構嬉しそうな顔をしている。だから言い返す私も、思わず楽しげな口調になる。

 OL生活3年目でやっと手に入れた一人暮らし。しかも彼氏のオプション付きとあっては、新しい生活への期待はいやが上にも高まる。そろいのマグカップを買っただけで一日興奮してしまう。
「でも、こんな物もらったら、俺本当にお前の所に入り浸るぞ。何たってクーラー無いからな、俺んとこ」
「確かに、これからの季節地獄だよね、この部屋」
 私は顔をしかめて見渡した。今はまだ涼しいが、7月にもなると、西日の直撃を受けるこの部屋の空気は体温より熱くなる。去年の夏、知り合ったばかりの私達は、蒸し風呂のような彼の部屋の中で何度も愛し合った。会いたい盛りだったとはいえ、我ながら物好きだよなあと思う。今も思い出しただけで汗が吹き出てくる。
「いいよ、避難しにおいでよ、西日の攻撃から」
「ばーか、冗談だよ。入り浸るってのは本気だけど、別にクーラーのせいなんかじゃない。ただ純粋に、お前の生活の匂いがする中で、お前と会えるのが嬉しいんだよ」
 浩一は細い目を更に細くして微笑んだ。

 入り浸るという浩一の言葉に嘘はなく、私の新居が部屋らしくなっていくのと並行して彼の荷物も増えていった。
最初は新婚生活の先取りのようで嬉しかったが、一週間もしないうちに、私は常に彼といることを苦痛に感じ始めていた。実家でもいつも家族がいたけど、生まれた時から傍にいる家族は特別だ。例えるなら家族は気圧みたいなもので、誰も普段気圧の存在なんて意識しない。無くなってみて初めて有ることを理解する。逆説的だけど、不在という形でしかその存在を意識することができないのだ。
 浩一は違う、他人だ。他人との共同生活で、相手を意識しすぎてしまう自分の心を、どうやってやり過ごしたらいいのか、私には分からなかった。
 じゃあ出て行ってって言えばいいじゃない。私は自問自答する。しかし私の中のもう半分が、彼との生活に安らぎを見いだしていることも紛れもない事実だった。二つ出しっぱなしのマグカップや、吸い殻の詰まった灰皿などが彼の存在を静かに主張してくれていることにどこかでほっとしていた。
 居て欲しいのに居て欲しくない、自分の中のジレンマをどうやって説明したらいいのか分からない、そもそもそんな自分勝手な感情を抱いてしまう自分が嫌になる。そんな焦燥感はそのまま態度に現れた。

「お前さあ、最近何か苛々してないか?」
「別に、何でもないよ、気にしすぎじゃない?」
 明らかに何でも無くない、ささくれ立った声で私は答える。この頃一日一度は必ずこの会話が交わされる。
「全然声が何でも無くないんだけど。なあ、不満があるならちゃんと言ってくれよ。じゃなきゃわかんないよ」
「私が何でもないって言ったら何でもないの」
 私は言葉で二人の間のドアを閉める。これでお終い、入ってこないで。彼は、とりつく島もないと言った顔をして溜息をつき、いつものように背中を向けて寝てしまった。

 ある日帰ってきたら、浩一は消えていた。
 ただの外出でないことはすぐに分かった。不在の程度が違う。荷物と共に、彼の気配がそのままごっそり無くなっていた。ある程度予想していたとはいえ、いざ本当にいなくなってみると、彼の不在がこたえた。と、ちゃりんと音を立てて何かが落ちた。拾い上げると、赤いリボンのついた鍵だった。彼が出ていく時に新聞受けに入れておいたのだろう。

 私はリビングの真ん中にへたりと座った。
部屋の中はいつもよりがらんとして見えた。私の心象風景みたいだ、と思った。隣の物音がやけに響いた。一人だと、こんなに静かで広いのか、この部屋は。こんな結末、望んでいたわけじゃない。せめて、思っている事全部話して、それから出ていって欲しい。 
「浩一」私は思わず口に出していた。
「はい」玄関の方から声がした。びっくりして振り向くと、照れ笑いを浮かべて立っている浩一がいた。
「何であんた、まだここにいるの……」私は呆然としながら訊いた。
「それ、俺の部屋の鍵。リボン……可愛いから、つけてみたら、どっちかわかんなくなっちゃって、間違えちまった」
 返して、と彼は手を差し出した。
「駄目、返さない」
「じゃ、俺今夜どこに寝ればいいのよ」
「私の部屋」
「だって、お前俺といたくないんだろ」
「うん、でも時々だから。基本的には一緒にいたい。一人になりたいときにちょっと出てってくれればいいの」
 口に出してみたら、あっけないほど簡単だった。言葉に鍵をかけたのは、こんな勝手なこと、言っちゃいけないという私の思い込み。
「わがままだな」彼は嬉しそうに言う。
「知ってる」
 そう、私はわがままだ。そして彼は私のわがままを初めから受け入れようとしてくれていたのだ。差し伸べられた手にそっぽを向いていたのは私の方だ。わがままを言葉にする努力を怠っていた怠惰な私。
「初めからそう言ってくれれば良かったのに、俺、お前の言うこと、頭ごなしに怒ったりしないぜ」
「うん、ごめん」
 そうだ。こういう人だから、私は好きになったんだ。そんなことも忘れていたのだろうか。

 私は手の中の小さな冷たい金属を握りしめる。まずは言葉の鍵を開けよう。言いたくて言えない言葉、喉の奥でつかえている、まだ形にならない言葉たちを解放してあげよう。
さて、まずは何と言おうか。少し考えて、私は宙ぶらりんのままになっている浩一の手を取った。
「おかえり、浩一」



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