FLOWERS

 7月の空は躁鬱病の女さながら。雷雨の号泣をひとしきり降らせたかと思ったら、夕方にはけろりとした顔で晴れあがった。夕立に洗われて、暑苦しく葉を広げた夾竹桃の、安物の口紅にも似た埃っぽい桃色も今は幾分涼やかに見える。
 不自然に鮮やかなバーミリオン・オレンジの夕焼けが、滑らかなグラデーションを描きながらゆっくりと灰色を帯びた藍に変化していく様を、診察室の窓からぼんやりと眺めていたら、机の上の電話が鳴った。受付からの内線ではなく外部からの直通回線だ。この番号を知っている相手は少ない。受話器を取ると、よく知った男の声がした。友人の野中だった。
「悪い、今夜の約束だけど、ちょっと急な相談が入っちゃって」彼は言った。
「別にかまわないよ。弁護士も大変だな。じゃあまた時間が空いたときにでも」僕は電話を切った。
 10分後、再び電話があった。
「さっきの件だけど、君も一緒に来ないかって」僕の返事を遮って、「いやその相談相手も昔からの友達でさ。いいワインが手に入ったから来ないかって。相談はただの口実なんだろ、多分」
「大丈夫なのか? 突然客が増えたりして」と僕。
「いいさ、遠慮なんか全然要らないって。ああ手みやげも不要だ。面倒だし、俺達なんかより数十倍も金持ちなんだからそいつは」
「誰なんだ?」僕は訊いた。医者や弁護士より数十倍も金持ちな人種というのはそれほど多くはない。
「吾妻有。名前ぐらいは知ってるだろう? この前ヨーロッパの何とかってブランドの服をデザインした、若手の日本画家」
 吾妻有なら僕も知っている。僕だけじゃない。その辺を歩いている女子高生だって、名前は知らなくてもその作品を目にしたことは必ずあるというくらいの有名人だ。
 もっとも、彼がそこまでの知名度を得たのはここ最近のことだった。それまでは、せいぜいカルチャー誌や美術雑誌に、個展やグループ展(ほとんどが後者だった)の案内が小さく載る程度の、そこら辺によくいる、限りなくアマチュアに近いプロの域を出ない画家の一人にすぎなかった。
 作風は現代的な要素を取り入れてはいたが、基本的には古典的な日本画の手法に則ったものが多く、作品評には決まって、「地味ながら繊細」とか「華美はないが優美がある」などの枕詞がついていた。要するに取り立てて目を惹く作品ではないということだ。
 そんな彼の作品にも特徴がないわけではなかった。彼は「花」以外のモチーフを決して描かなかった。花と人あるいはその他の静物、などの取り合わせもない。ただ花のみ。とはいえそのことが彼の知名度をいくばくかでも上昇させたかというとそうでもない。
「ああ、あの花しか描かない変わった画家ね」それで会話は別の話題に移る。そんな場面が目に浮かぶ。
 でも僕は彼の作品が好きだった。それらは確かに地味ではあったが決して凡庸ではなかった。僕が初めて彼の作品を目にしたのは、待ち合わせに早く着きすぎた時間つぶしのため、気まぐれに足を踏み入れた銀座の画廊でのことだった。 自己顕示欲旺盛な他の作家達の大判の作品に紛れ、気弱な居候のように画廊の片隅に飾られて――と言うよりはうち捨てられて――いた、F4号の小さな日本画。画面の中央には、細長い円筒形の白磁の花瓶に、花というよりは羽根箒のような羽毛鶏頭が、はっとするほど紅い首部を垂らしていた。
 モヘアのような花弁の一筋一筋を丁寧に描いたその作品には、吾妻の描くことに対する誠実な姿勢がよく現れていた。もちろん誠実さだけでは作品の善し悪しは決まらない。でもそこには抑制された美しさがあった。第二次性徴期直前の少女の無自覚な美。彼女が唇に一筋紅を差せば――あるいは差すことを意識するようになれば――その美しさは誰の目にも明らかなものとなるだろうに。僕は吾妻にそんなもどかしさを覚えたものだった。
 やがて彼の才能が文字どおり開花する日が来た。3年前、吾妻のもとにフランス・ファンテジ社の高級服飾ブランド「キ・カ・ヴィ」とのコラボレートの話が舞い込んだ。
 ファンテジ社は当時、従来の高級指向の路線とは異なる、10代から20代前半の女性をターゲットとした、より身近なセカンドラベルのブランド「キ・カ・ヴィ/アミ」の立ち上げを準備していた。そのブランドイメージとなる商品のデザインに、キ・カ・ヴィのナンバーワンデザイナーであるフィリップ・ラクロワともう一人、当時まったく無名だった吾妻を起用したのだ。メディアはこの大抜擢を検証する暇もなかった。全ては極秘のうちに進められ、我々は新ブランドの誕生のニュースを知らされると同時に、今までの彼からは想像できないとびきりポップな作品を目にすることとなった。
 当時のことは良く覚えている。ファッション誌やブティックはもちろんのこと、街を歩いていても、電車に乗っていても必ず「キ・カ・ヴィ/アミ」の服を着ている女の子を見かけたものだった。
 新雪のように眩しいセラミックホワイトの生地にプリントされた、派手な蛍光色の花々。ショッキングピンク、コバルトブルー、ライムグリーン、レモンイエロー、どれも自然界にはちょっとない色ばかり。しかし悪趣味にどぎつくなるぎりぎりのところで絶妙に彩度を抑えているため、その不自然な色遣いが奇妙な生々しさを花たちに与えていた。色気、と言ってもいいかもしれない。描かれた花は全部で8種類、バラ・ガーベラ・海芋・紫陽花・マリーゴールド・ユリ・マグノリア・桜……といわれていたが(マグノリアではなくガーデニアだという説もあった)、実際のところは分からなかった。何しろ色彩が非現実的な上、花の形も相当にデフォルメされていたからだ。マリーゴールドといわれた花の花弁は38枚あったし、紫陽花らしき花を形作っている小さな花たちの群れの中には、一つとして同じ形のものはなかった。この世にはない夢の花々、と評されたこともあった。
 不自然な色彩と歪な形状を与えられた代償に生命を得た花たちは、布地の上で自由に跳ね回り、挑発し、艶めかしく媚を売った。吾妻有のデザインはファッションブランドの枠を超え、ポップアートの世界でも賛辞をもって受け入れられた。
 さらに、フィリップ・ラクロワの卓抜した服飾デザインのセンスが商業的な成功を呼びこんだ。彼は洋服の素材としては奇抜すぎるこの柄を大胆に利用したワンピースやブラウスをデザインした。フリルやボタンなどの装飾をを一切排除して、代わりに――という訳ではないのだろうが――胸元を大きく開け、皮膚に張りつかんばかりにボディラインを強調させたのだ。それは洗練されていると同時に扇情的なデザインだった。身につけた女性は、真っ白な素肌に色とりどりの花を貼りつけているかのように見えた。
 “FLOWERS”といういささかひねりのない名前をつけられた一連の洋服は、女性のコケティッシュな魅力を最大限に引き出した。それはほとんど魔法に近かった。女の子たちは、自分を魅力的に見せるようにプリントの花たちと秘密の取引をしているんじゃないかと冗談めかした噂も流れた。
 ファンテジ社の読みは当たったのだ。「キ・カ・ヴィ/アミ」のブランドは感染力の強い伝染病みたいに世界中の女の子たちの間に広まり、その年の売り上げは本家の「キ・カ・ヴィ」を上回った。
 誰もが吾妻/ラクロワの第二弾を待ち望んだ。しかしそれは永遠にやってこなかった。多額の更新料に見向きもせず、吾妻有は当初の約束どおり契約を打ち切ると(第一弾で終了、反響次第で契約更新もあり得る、というのはファンテジ社側からの提案だった)、ふっつりとアートの世界から姿を消してしまった。
 第一弾で終了したことに、僕自身はかなり安堵した。僕が望んだのはただ、彼の花たちがほんの少しだけ艶を帯びることだった。こんな風に、だらしなく花弁を広げて受粉を待ちうけているような姿を見たかった訳ではなかった。
 僕の目には、吾妻の花たちは女を飛び越えて娼婦になってしまったように映った。


 恵比寿の外れにある、吾妻の自宅兼アトリエに僕たちが着いたのは8時をまわった頃だった。頑丈そうな門構えの向こうには、よく手入れされた芝の前庭が広がり、その奥に戦前の民家をそのまま使っているような古い木造家屋が建っていた。独りで住むにはいささか広すぎる感じの家だった。
 玄関先で吾妻氏が僕たちを迎えてくれた。リーバイスのジーンズに白地のプリントTシャツ、水色の麻のシャツを羽織った姿はこの家の主というよりは、夏休みに別荘の留守を任された大学生のようだった。とても僕等と同じ三〇代前半には見えないくらい若々しかったし、何となく、その若さがこの重々しい家屋に対してちぐはぐな感じがしたのだ。吾妻氏は友人と軽く挨拶を交わすと、僕たちを中に招き入れた。
 長い廊下を渡って応接間にはいると、既に用意はできていた。テーブルには赤ん坊が軽く乗りそうな大きさの皿一杯に盛られた伊勢海老と帆立貝、それにオーパス・ワンが3本載っていた。
 野中が僕たちを交互に紹介した。僕を指さし、「彼は君のファンなんだぜ」と吾妻に言った。それは光栄だねと彼は微笑んだ。嫌みのない笑顔だった。僕は曖昧に笑った。
 吾妻氏はそのファッションと同様、飾らない人物だった。初対面の僕にも気さくに話しかけ、時折きわどいジョークで知り合いの画家や批評家をこき下ろし、僕たちを笑わせた。芸術家によく見られるある種の近寄りがたさは全く見られなかった。そのことは僕を随分と安心させたけれども、同時に少々残念な気持ちにもなった。やはり芸術家には、どんなに薄くても神秘のベールを被っていて欲しいという願望が僕にも少なからずあった。
 ともあれ僕たちは旧い友達のようにうち解け、上機嫌でよく冷えたワインを流しこみ、伊勢海老と帆立貝の山を平らげていった。気持ちのいい時間が流れた。
 3本目のワインが空いた頃、三人とも良い気分で酔っていた。僕は何となしに吾妻に尋ねた。どうしてキ・カ・ヴィとの契約を打ち切ったのですか? “FLOWERS”は好評で、世界中が次の作品を待っていたというのに。本当に何の他意もなかった。適当にはぐらかされたらそれでもいいと思っていた。どうせこんな質問、何百回とされているに違いないのだ。
 吾妻の目が一瞬細くなり、顔つきがほんの少しこわばった。完璧な演奏の中に、一音だけミスを見つけたときのような表情だった。それから友人の方を見た。彼も吾妻氏の方を見ていた。二人の視線が絡む。双子のように濃密な目くばせだったが、僕にはそれが何を意味するのかさっぱり分からなかった。僕はルールの分からないゲームで、いきなり負けを宣告されたような気分になった。
「その話題は今とてもナーバスなんだ」しばらく経ってから野中が言った。「悪いな、これ以上はちょっと言えないんだ」
「いや、こっちこそタイミングの悪い話題を振ってすまなかった」僕は言った。一瞬にして祭りが終わってしまったような、白けたような静寂が部屋の中に満ちていた。
 どこか遠くのほうでパトカーのサイレンが鳴っていた。時計を見ると、午後11時30分を指していた。そろそろお開きの時間だった。
「実は今、まさに第二弾に取りかかっているところなんだ」突然吾妻が切り出した。野中が制止しかけたが、それを遮った。「いいよ、そんなあからさまに不自然な態度、普通の人ならもう感づいてるよ。それに今日は久しぶりにすごく楽しかったんだ。この雰囲気を壊したくない。
 再契約の条件は、期限内に僕がファンテジ側の気に入るような作品を作り上げること。ラフスケッチじゃなくて、完全な一つの作品として。色遣いもすべて審査の対象になる。僕は彩色から生地選びから全部自分でやるから」
「期限はいつまで?」
「今年いっぱい」彼は言った。あと半年足らずだ。
「でもどうして急に?」僕は尋ねた。
「そりゃ君、決まってるだろう」吾妻はにっこりと微笑んだ。まるで5歳の子供みたいに邪気のない笑顔だった。「金のためだよ」
 何の衒いもなく口に出された「金」という言葉は、「信念」とか「情熱」と同義の言葉のように、あるいは同じくらいそらぞらしく僕の耳に響いた。
 翌日、インターネットでファンテジ社のサイトを調べた。当然“FLOWERS”の新しいニュースなどどこにも載っていなかった。他にも何か情報はないかと検索をかけたが、噂の尻尾すら出てこなかった。どうやら僕は国家機密並にレアな情報を掴んだらしい。
 自分の人生とどれほど関係なかろうとも、重大な秘密に触れるというのは悪くない気分だ。それを知る自分も価値のある人間であるかのような錯覚を味わえる。

 僕が二度目に吾妻と顔を合わせたのは、彼の家を訪れてから1ヶ月ほど経った頃だった。世間は盆休みの最中で、街にはワイシャツ姿のビジネスマン達の姿が少なくなった代わりに、熱帯植物みたいな服を着た女の子達が溢れかえっていた。
 いつものとおり診察室で患者の名前を呼ぶと、彼が入ってきてにっこりと笑った。僕は驚いてカルテと彼を見比べた。確かに名前は別人のものだった。
「吾妻有ってのはペンネームでね。本名は吾妻秀敏」彼は僕の考えを察して言った。「君が内科の医者だってことは前に聞いていたけど、ここの病院だったとはね」
「うちの病院は初めてみたいだね」僕はカルテを見ながら言った。
「君のところは、というより病院自体初めてみたいなもんだよ。ものごころついた頃から病気といえば風邪ぐらいしかひいたことがなかったし。ただ、この頃はさすがに歳かな。どうも胃の調子がおかしいんだ。何だか針で刺されるみたいな痛みを時折感じるし、食欲もあまりわかない」
「例の件でプレッシャーを感じているのかも」僕は彼の口の中を覗きこみながら言った。胸と背中に聴診器を当てる。特に異常を示す音はしなかった。
「そうかもしれない」僕に背中を向けて吾妻が喋る。「でも、最初のオファーの時の方がよっぽど精神的には辛かったんだぜ。作品が仕上がるまではほとんど眠れなかった。時間がなかったってのもあるけど、受けなかったらどうしようという不安でいつもぴりぴりしてた。それでも体調を崩すことなんてなかったのに」
「どんな頑健な人間も、年をとれば必ず内側が弱っていく。鉄筋コンクリートの建物が少しずつ腐食していくようにね。でもそれはしかるべき処置をすれば元通りに修復できる。まあ、君の場合は良くある胃炎だと思うけど。コンクリートがちょっと欠けた程度さ」僕は笑ってそう言うと、レントゲン室に彼を向かわせた。
 しかし吾妻の病状は僕が思っていたほど良くある話ではなかった。腹部のレントゲン撮影の結果、胃に影が見えたのだ。良性の潰瘍か悪性の腫瘍か。大きさからして、悪性だとすると段階はかなり進んでいる。僕は彼を再び診察室に呼び、シャーカステンに彼の腹部X線写真を貼りつけた。写真の中央に収縮した胃が白く映っている。それは胃というよりは身を縮こまらせた奇形の胎児のように見えた。
「ここの部分」僕は胎児のへそのあたりを指さした。そこだけぽつんと染みのような黒い影が浮かんでいる。
「腫瘍ができている。まだ悪性か良性かは分からないけど、いずれにしろ取り除かなきゃいけないことには変わりないんで、すぐにでも入院して欲しい」
 腫瘍、という言葉に吾妻はわずかに身をこわばらせた。
「すぐにはとても無理だ。早くても三日後がせいぜいだと思う」
「じゃあそれでもいい。とにかく摘出しないと何も分からないんだ」
「仮に悪性だったら、僕はどうなる?」
「この大きさだと……楽観視はできない」僕は言葉を選んだ。
「楽観視はできない」外国人が聞き慣れない日本語の発音を確かめるように、彼は僕の発言を繰り返した。「楽観視はできない」

 吾妻が入院したらすぐにでも面会に行くつもりだった。しかしちょうど東北で学会が入ってしまい、僕が彼の病室を訪ねたのは入院から1週間も後のことだった。
 学会から戻ってすぐに、彼の診療録に目を通した。手術は3日前に行われ、摘出した腫瘍の検査結果は即日判明していた。良性だった。
僕はひとまず胸をなで下ろした。どうやらことさらに快活さを装って彼に面会しなくても良いらしい。
 内科病棟は入院棟の3階にある。彼は一番端の個室部屋にいた。僕が面会に行くと、吾妻は嬉しそうな表情を見せた。見渡すと、病室はちょっとした蘭の展示会みたいになっていた。至る所に蘭の花が飾ってある。花瓶が足りなくて、そのまま洗面所で水に晒しっぱなしになっている花束もあった。
 胡蝶蘭、カトレア、シンビジューム、デンドロビューム……。どうして必ずと言っていいほど金のある連中は、蘭みたいに手間のかかる花を見舞いに持ってくるんだろう? 病人に、枯らさないようにいちいち世話をしろとでもいうのだろうか。
「3年も干された画家にしては上出来かな」
 僕の視線に気づいて吾妻が言った「どこかからファンテジ社との再契約の話が漏れたんだろう。人の口に戸は立てられないってね」
 結果が出るまでは生きた心地がしなかったのだろう。吾妻は可哀想なくらいげっそりと痩せ、目の下を隈が覆い、頬には暗い翳りができていた。
「良性だったそうだね。良かった」僕は言った
「まあね。それにずっと絵ばかり描いていたから、仕事の面でもかえって良かったかもしれない」彼は弱々しく笑った。「ところで、時間ある? 良かったら僕の絵を見てもらえないかな?」
「何のために?」僕は驚いて言った。「第一、僕みたいな素人に何が分かるっていうんだ」
「さあ、それは僕には分からない。そもそもそれが分かっていたら、君に見せる必要もないだろう?」彼は肩をすくめて僕の方を見た。「まあそれは冗談として――誰にも見せずに一人で黙々と描いていると、時折ふと不安になるんだよ。自分が何を書いているのか分からなくなる。壁打ちばっかりしていると、フォームの乱れに気づかなくなるようにね。そんな時は誰でもいいから何か言って欲しくなるんだ。これは犬ですか、色が綺麗ですね、宗教画のような荘厳さを感じます――的はずれでもかまわない。とにかく予想もしない場所からボールが打ち返されてくることが大切なんだ。そうすればまた僕は壁打ちに専念できる」
 吾妻はデイパックの中から、B4サイズのスケッチブックを取りだして僕に渡した。何枚かの鉛筆書きによるデッサン画のあとに、パステル画のイラストが1枚描いてあった。
 長い巻き毛を振り乱すように、プロミネンスを伸ばした青い太陽が紙面いっぱいに描かれている。サテンのようなつややかな光沢を持った青は先端にいくほど透明度を増し、最後は紙面の白に溶けてしまうため、太陽の輪郭は湖面に映る月影のようにぼんやりと滲んでいる。
 反対に、中心に向かうほど青は濃くなっていく。緻密なグラデーションによって、抜けるような空の青から、光の届かない深海の、限りなく暗黒色に近い青へと色彩は導かれていく。
 中心を凝視すると、暗黒だと思っていた部分には、実はところどころに鮮烈な赤が見え隠れしている。力強い作品だった。しかしそれはこれまでの彼の作品が持っていた、ほとんどノー天気なまでの生命賛美に支えられた強さではなく、まるで既にうち捨てられたはずの発電所の、核融合炉だけがいつまでも動いているかのような、不気味な生命力のなせる技だった。
「これは?」僕は訊いた。
「向日葵」彼は言った。青い向日葵。プロミネンスに見えたものは花弁か。太陽の本体部分をよく見ると、青の濃淡の陰影によって、松かさのような無数の管状花が、偏執的なまでの精密さをもって描かれている。
 3年前とは全く異なる作風。花のデフォルメはさらに激しくなっていたが、前の作品にあったグロテスクさは大分薄れ、むしろ抽象画に近い作品に仕上がっている。そして何よりこれまでの彼の作品にはなかった暗い影によって、作品は格段に洗練の度合いを増した。
「素敵だ」僕はため息をついた。
「本当に?」彼は言った。疑うような響きではなく、「きみもやっぱりそう思う?」というニュアンスを含んだ問いかけだった。
「本当に」僕はおうむ返しに答えた。「まあ素人の言うことだから、当てにしてもらっても困るけど」笑いながら付け加えた。
「僕もこれまでの自分の作品の中で、これが一番だと思う」彼はため息をついた。「でも駄目なんだ」
 そう言って、もう一冊のスケッチブックを僕に手渡した。ぱらぱらとめくると、FLOWERSの頃のような、ポップで明るい色彩に戻ったパステル画が3、4枚描いてある。もちろん以前よりも幾分かの技術的な向上は見られるが、先刻の青い向日葵の、霊感に打たれたような仕上がりとは比べるべくもない。
「いいんじゃないか? 個人的には……前の作品の方が好きだけど」僕は言った。
「気を遣ってくれなくていいよ。自分でも前のやつの方が出来がいいことは分かってる。いや、出来がいいなんてもんじゃないな。あれに比べたら、この花なんてほとんど白痴の微笑みみたいなもんだよ。深みがない」
「何が違うんだろう?」僕は言った。
「あの向日葵は、手術の前日まで描いていたものだ」彼はサイドテーブルの煙草に手を伸ばした。僕はちらりと目をやったが、黙っていた。「君はこんな話、聞き飽きてると思うけど……夜、一人で病院にいると、自分が時間の流れから置き去りにされてしまったような気分になるんだ。もちろんドアを開ければ廊下の電気はついてるし、ナースステーションに看護師だっている。頭では分かっているのに、病院が、この部屋に閉じこめることによって僕を少しずつ人の営みから隔離しようとする装置みたいに思えてきてしまう。僕を来るべき死というものに慣れさせるためにね」
「被害妄想だ」僕は言った。
「そう、被害妄想だ。でもそんな時、僕は自分の中で育ちつつある腫瘍のことをはっきりと感じ取れた――気がした。僕の生命力を吸い取っては、宿主を破滅させるという目的のためだけに黙々と増殖をつづける細胞のことをね。あの向日葵はそれを描いたものだ」
 吾妻は大きく息を吐いた。煙が目の前を白く覆った。「正直なところ、僕は腫瘍が摘出されたとき、そしてそれが良性だと告げられたとき、ほんの少しだけ寂しい気持ちになった。だって手術までに過ごした眠れない夜、僕にとって、僕以外に意志をもった存在といったら、あの腫瘍だけだったんだから」
「じゃあ、悪性だったら良かったとでも?」
「結果の問題じゃないよ。もちろん良性と聞いたときは身体の力が抜けるくらいほっとしたさ。でも駄目なんだ。手術が終わって結果を聞いた途端、腫瘍と一緒に何かが取りさらわれてしまったみたいに描けなくなってしまった」
 僕は何も言わなかった。
「おそらく、次に僕があの向日葵みたいな絵を描けるのは、臨終間際だろうね」吾妻はそう言って力なく笑った。「でもそれでいい、というよりそうであって欲しい。情けない話だけど、結果が出るまでは本当に怖かった。もうあんな思いはしたくないんだ、本当に」
 短くなった煙草を灰皿の上で押しつぶすようにして消すと、吾妻はぐったりとベッドに横たわった。半開きにした窓から、午後のぬるい風が入ってきて彼の頬を撫でた。どこかで微かに風鈴がちりちりと鳴る音がした。
 
 一週間後、吾妻はすっかり回復して退院した。診療時間中だったので見送りにはいかなかったが、窓の外から病院を出る彼の姿が見えた。入院前よりいくらか痩せてはいたが、八月の強い光に洗い流されてしまったかのように、彼の顔から死の翳りはすっかりと失せていた。
 彼が去ってからも、吾妻の向日葵は僕の頭から離れなかった。むしろ時間が経つにつれ、あの非現実的な青い花は記憶の中でますます鮮やかさを増していった。それほど素晴らしい絵だったのだ。
 今回の入院まで、彼が死というものを身近に感じる機会がなかったことに加えて、それが如実に作品に反映されたことに僕は強い興味を覚えた。あらゆる芸術は究極的には死を指向していると言ったのは誰だったろう。吾妻の作品は、死のスパイスをほんの一振りしただけで急成長を遂げたのだ。では彼がもっと死というものを――それこそ第二の皮膚のように身体に張りつかせるほど近しいものと感じるようになったら、いったいどれほど素晴らしいものを生み出せるのだろう?
 吾妻にもっと死を意識させたいという欲求は、獲物を捕らえた鷹の鋭い爪のように、僕の意識にしっかりと喰いこんで放れようとしなかった。僕は暇さえあれば彼の可能性について考え、彼がこれから生み出すであろう、まだ見ぬ素晴らしい作品のことをうっとりと想った。しかし凡庸な僕の頭では作品の影すらつかめない。そのジレンマに僕はひどく苛立った。

  吾妻にいま一度死について考えさせるためには、一体どうすればいいのだろう?


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