紀元前8世紀頃、ヨルダン下流域に存在したとされるガド族の民間伝承に興味深いものがある。ガド族が巫女を頂点とする完全な政教融合型の神権政治によって部族を統治していたこと、部族の一大事においてもたらされたある託宣が非常に抽象的であったため、解釈をめぐって部族内の対立が勃発し、内戦に次ぐ内戦で疲弊しきったところを新興勢力であるエルアザル族に攻め込まれ、殲滅させられたことは割合に有名だが、彼らの宗教観そのものについてはあまり知られていない。
 ガド族はヨルダン川流域というキリスト教文化の興隆地の中心にいながら、独特の宗教観を持っていた。彼らの「神」はキリスト教とは異なる独特の存在であり、善と悪とを併せ持つ絶対者であった。我々のこの世界は「神」の発した最初の言葉から生まれたと彼らは信じている。言葉の振動のあわいから世界がこぼれ落ち、またそのこぼれ落ちた際の空気の震えが動植物などの生物を産んだのだ、と。つまり彼らにとって世界とは言葉であり、究極的には振動そのものなのである。この考え方はどちらかというとインド密教に近い。そのため彼らの起源をインドやチベットに求める研究者も多いが、その話は今回はおいておく。
 ともかくガド族にとって、世界を――人や、運命そのものをも――操る術はただ一つ、サーファーが波を読み、グライダーパイロットが風を読むように、対象が持つ“振動(ヴァイブ)”に耳を澄まし、読み解いて自分のものにすることだった。
 ガド族における死の話をしよう。彼らは死後の世界を信じない。死はもともと我々の中に存在する。後からもたらされる厄災ではない。生の割合が多いうちは、我々は生者でいるが、死の割合が増えると死者となる。死者と生者は同じ世界に住んでいるが、互いに干渉することができない。病苦や腐敗は死の割合が徐々に増加していく過程である。
 病を治すために、彼らは振動を用いる。巫女が生み出す振動によって生の割合を増やすのだ。方法はまず、患者を池や湖(なるたけ水が澄んでいる場所が望ましい)に首まで浸からせる。術者である巫女は、セバと呼ばれる複数の円筒が連なった打楽器様の呪具とともに自らも腰まで水に浸かり、呪具を打ち鳴らす。水によって増幅された振動が患者の生命を構成する振動と共鳴し、彼の中の病を弱らせ、生命に活気を与えるという仕組みである。
 逆もまた真なり。巫女達はごく稀に、これを人を呪う手段に用いた。負の振動を与えられた者は死の妄執に捕らえられ、時には病苦に苛まれ、やがて現実の死に至る。これは巫女達にとっても秘儀中の秘儀だということだ。
 僕は死について考え続ける。そして吾妻のことも。まるで考え続けることで、僕の思考の微弱な振動を、彼のなかの何かに共鳴させようとするかのように。

 ある晩、僕は夢を見た。
 僕は4畳半くらいの白い部屋の中にいた。四方を白い壁に囲まれ、床も天井も白い。壁と床や天井の境目には継ぎ目がなく、継ぎ目のない六面体の内部にいるような感じだった。
 部屋の中央には、僕の部屋のものと同じ機種のプッシュホン電話が置いてある。僕は受話器を取ってボタンを押した。予めプログラムされているかのように指が勝手に動いた。見覚えのない番号だったが、僕にはそれが吾妻の自宅のものだと分かっていた。呼び出し音が鳴る。3回、4回。5回目の途中で受話器をとる音がした。夢特有の理不尽さで、僕にはそれが吾妻だと分かっていた。僕は何も言わない。彼も「もしもし」とも「誰?」ともいわない。
 沈黙が重たくなってきた頃、思い出したように吾妻が僕の名前を呼んだ。
 そこで目が覚めた。
 僕は今日の夢を何度も頭の中で反芻した。彼が退院して以来、僕たちは一度も会っていない。これは彼に何かを伝えたがっているという、僕の深層意識の表れなのか。それともその逆で、彼の僕に対する何らかのメッセージなのだろうか。
 僕は頭を振った。そんなことを考えて何の意味がある?
 何度か連絡をとろうと試みたことはあった。しかしいつ自宅に電話をしても出ないし(彼は携帯電話を持たない)、メールを送っても返事はなかった。おそらく“FLOWERS”の締め切りが迫ってきているため、アトリエにこもってそちらに専念しているのだろうと思った。そうだとするとあまり頻繁に連絡する訳にもいかない。
 奇妙な夢はその後も続いた。だいたい1週間に2回程度で、内容は全く同じ。白い部屋の中で電話をかけると、吾妻がこれを取って僕の名前を呼ぶ。そこで目が覚める。いつも同じ内容だった。
 これはいよいよ僕のほうがおかしくなってきたかな、と思い始めた頃、突然吾妻から連絡があった。夢を見始めてから2ヶ月ほど経っていた。
 
 僕と吾妻は静かなバーのカウンターに座っている。僕の前にはオールド・エズラのオン・ザ・ロックが、彼の前にはワイルド・ターキーのストレートが置かれている。
 吾妻は何も言わない。ビル・エヴァンズ・トリオの「エクスプロレーションズ」が遠慮がちに沈黙を埋める。僕はスコット・ラファロのベースラインに耳を澄ましながら彼が切り出すのを待った。
「僕に一体何をした?」吾妻は言った。
 僕は彼の方を向き直った。入院直後の頃みたいな翳りが頬のうえに落ちている。最後に見たときよりも随分痩せている。暗い照明のせいでよく見えないが、多分顔色も悪いんだろう。
「変な訊き方ですまない。でも他に何といったらいいか分からないんだ――君、僕に何かした覚えはあるかい?」
「誓って何もしていない」すくなくとも現実の世界では、と心の中で留保しつつ僕は即座に答えた。「大体何かするって何なんだ」
「申し訳ない。でも、僕にとってもすごく奇妙な体験で、偶然起きたとはちょっと考えられない。でも、じゃあ誰が何をしたのかと訊かれると上手く言えなくて正直困っている。ただ――これは全くの勘だけれども、僕には君が何か関係しているような気がしてならないんだ」
「悪いけど、何が何だかさっぱり分からない。順序立てて話してくれないか」
 僕がそう言うと、吾妻は 「夢を見るんだ」
「夢?」僕はぎくりとした。彼は気づかずに話し続けた。
「地下のアトリエのドアを開けると、夥しい枚数のX線写真が落ちているんだよ。頭蓋、頚部、肺、乳房、胃、腸、腎臓、睾丸、子宮……等々。フィルムに記載されている名前や日時から、それらが不特定多数の人間のものであることが分かる。もちろん見たことのない名前ばかり。でも一つだけ共通点がある。花なんだ」吾妻はショットグラスを呷った。「X線写真だから当然、白いぼんやりとした影としか写ってないんだけど、僕には分かる。ああ、子宮の真ん中に咲くのは紅葉葵、肺の真ん中で丸く凝っているのはアリウム・ギガンテウム、乳房に点々と散らばる瑠璃茉莉……身体のどこかに必ず花が潜んでいて、僕はそれを見つけるとおもむろに画材を取り出し、花に色をのせ始めるんだ」
 僕は黙って彼の話を聞いていた。BGMは『エクスプロレーションズ』から、『オープン・トゥ・ラブ』に変わった。不吉な予感をそのまま音色にしたようなポール・ブレイの沈鬱なピアノ。
「描き上がった花には、一つとして現実の花と同じものはない。もっと歪で、禍々しくて、ずっと美しいんだ……あの向日葵みたいに。そして僕が花に色をつけ終わると、写真の人物は死ぬ。どうしてだか僕には分かる。だから止めたい。でも止められない」
「何故止められない?」
 僕がそう言うと、吾妻は少し言いよどんだ。しばらく手の中でショットグラスを玩んだ後、呟くようにつづけた。
「僕自身が見たいからだ。誰かの身体の上で、次はどんな花が咲くのか……昨夜もまた夢を見た。頭蓋の上に、青い彼岸花が咲いていた。まるでラピスラズリでできた王冠を戴いているみたいに。いや、ラピスラズリの群青よりもまだ深い、その艶やかな青の鮮やかさと言ったら! ねえ、君も引きずり込んで見せてやりたいよ。誰かの死と引き替えに、僕は君が望むような作品を次々と生み出しているんだ」
 まさに夢のような話じゃないか、そう言って吾妻は喉の奥に引っかかるような笑い声を挙げた。
「どのくらいの頻度でその夢を見る?」僕は訊いた。
「だいたい一週間に1、2回くらいかな。少ないときには二週間に1回」
 僕の夢と同じくらいだった。
「たかが夢じゃないか」僕はことさら軽い口調で言った。「実際に人が死んでいる訳じゃあるまいし」
「確かに君の言うとおりかもしれない。でも、夢の中では本当に誰かが死んでいる。少なくとも僕はそう思いこんでいる。僕の手で誰かを殺す、その度に花が生まれる、目覚めるまではそれが真実なんだ」
 それに、と吾妻はつづけた「実際には誰も死んでいないなんて、そんなこと、誰に分かるんだ?」
「キ・カ・ヴィのほうはどうなった?」僕は話題を変えた。
「駄目だね」吾妻は首を振った。「彼らが求めるようなものはもう描けなくなってしまった」彼は僕の方を向いて、口の端をゆがめて皮肉な笑みを見せた。「考えてもみろよ。どこの世界に具現化した死を身に纏いたいと思う女がいる?」
「それが人を美しく見せるならば、需要はあるだろう」
「美しく見えるとでも?」
「ムンクのマドンナは、死を纏っているが故に美しい」どこかの三文小説に載っていた一文を僕は引用した。
「彼女は裸だ」彼は言った。
「確かに」僕は言った。

 彼の夢の出来事が、僕の夢に共鳴して起きたことなのかは分からない。僕が夢を見た日と彼のそれとが一致するのか否かは確かめようがないし(僕も彼もそれをいちいち覚えているほど几帳面な性格ではない)、そもそも因果関係が不明である以上、日付が一致したからどうしたというものでもない。
 僕の方は例の夢を全く見なくなった。彼の方は知らない。それ以来連絡をとっていない。
 年が明けても、キ・カ・ヴィ/アミと吾妻の再契約をほのめかすニュースは聞こえてこない。吾妻自身の消息も聞かない。一度野中から吾妻の居所を尋ねられたが、退院以来全然連絡をとっていないと答えた。
 彼は数点の新作をアトリエに残して、今度は社会そのものから姿を消してしまったらしい。失踪直前に描いたとされるそれらの作品を、どの批評家も一様に「彼の最高傑作」と褒め称えていた。僕も週刊誌で彼が残した作品を目にした。うち一枚は例の青い向日葵。あとの数枚は見たことのないものだったが、僕にはそれらが、彼が夢の中で誰かの生命を代償にして手に入れた花であることは一目で分かった。僕は深い満足を覚えると同時に、誇らしい気持ちになった。彼は――もしかしたら僕のささやかな助力によって――真の芸術家たりえたのだ。
 誰彼かまわず触れ回りたいところだったが、どうせ信じてもらえるはずがない。このことは僕だけの秘密となった。

 ある日、いつものように病院から戻ると、僕の帰りを待ちかまえていたように部屋の電話が鳴った。留守番電話に切り替わるのを待ったが、機能をオンにし忘れていたのかベルはいつまでも鳴りやまない。僕は根負けして電話を取った。
 受話器の向こうから、海の底のような沈黙が染み出してきて、僕の耳の中をゆっくりと浸した。
「吾妻?」僕は言った。その途端電話は切れて、ツーツーという音だけが残った。僕は激しく頭を振った。さっき耳の穴から入り込んだ静寂が、内耳を通ってゆっくりと僕の脳や肺や血液に浸透して、僕を侵そうとしているのが分かった。血管を通った静寂は、頸動脈を下って腕を回り、指先まで到達し、今度は僕の心臓を目指して中心に戻りつつある。身体の内側から氷水を注がれたようなひどい寒さを感じて、僕は自分の身体をきつく抱きしめた。不意にガド族のことが頭に浮かぶ。世界の振動を意のままに操れた巫女達がどうして死の呪術のみを秘儀中の秘儀としたのだろう? 水によって増幅された振動は、巫女達の内にも存在する“死”に対しても等しく働きかけるからではないか? 秘術とされたのは、それが自らも死を賭して行う呪いだったからではないか?
 震えながら縮こまっていると、雷雲が遠ざかるように次第に寒気は去り、指先に感覚が戻ってきた。こわばった身体をぐっと伸ばし、汗ばむ程度のストレッチを10分ほど続けたら、すっかり元通りに動くようになった。しかし僕は、自分が以前の僕とは決定的に異なってしまったことをはっきりと感じていた。吾妻に起きたのと同じことが、形を変えて僕に降りかかってきたのだ――おそらく。


 その後、僕の身にとりたてて変わったことは起きていない。僕は毎日病院で診察を行う。野中の紹介でガールフレンドもできた(彼は人を引き合わせるのが趣味なのだ)。大手の法律事務所で秘書をやっている、ぱりっとしたスーツのよく似合う女の子だ。仕事のない週末は彼女の部屋で過ごしたり、一緒にドライブに出かけたりする。最近、彼女はやたらと実家の両親にあってくれとせがむ。休みが取れないと言い訳をしながら何とかのらくらかわしてきたが、今度の正月休みにはもう逃げ切れないだろう。
 時折吾妻のことを思い出す。結局、吾妻の最後の作品は、都内にある現代美術の展示を中心とする私立美術館が、現存する作家にしては破格の値段で買い取った。誰も面だっては言わないが、皆吾妻が既に死んでしまったものと思っているのだ。
 しかし僕は、今も吾妻は生きていて、どこかであの夢を見ているのだと確信する。なぜなら僕のほうの呪いが未だに成就していないからだ。
 彼は夢の中で、いつまでも死の花を描き続ける。それは彼が僕のX線写真を見つけるその日まで続く。街角のフラワーショップ、花壇の植え込み、色鮮やかに咲き誇る花々に目を留めるたび、僕の視界にはもう一輪の花がオーバーラップする。いつか彼が僕の写真の上に見いだすであろう花。そのことに思いを巡らしていると、僕はとても幸福な気持ちになれる。恐怖はない。

「花が好きなのね?」
 どこかの家の庭に咲く牡丹の花をじっと眺めていたら、彼女が僕に言った。多分僕はひどく優しい目をしていたのだろう。彼女が穏やかな表情で僕の目を覗きこんだ。
「うん、好きだよ」僕は言った。
 自分の臓腑に咲く花が、こんな鮮烈な赤だったらいい。思わず閉じた目裏に、一瞬、残像のように緋色が滲んだ。



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