早春の城下町・萩    

萩は四百年前に毛利輝元によって作られ、約260年の間毛利36万石の城下町として栄えました   
萩市は山口県の北部(日本海側)のほぼ中央に位置し、阿武川が日本海にそそぎ込むところに形成された
三角洲を中心とした城下町です。  
この小さな町が、あの幕末から明治維新へと多くの人材を輩出し、時代を変革したのです。 
しかし3月中旬の萩は、寒いでした。 それもそのはず、日本海からの冷たい風が、容赦なく吹き付けるのですから。

松下村塾は1856〜1859年、幕末期に吉田松陰が主宰した私塾です。 
松陰は叔父の後を継ぎ、塾を実家杉家邸内の納屋を増改築して開きました。  
アメリカ密航の企ての罪で萩の野山獄へ入れられ、その後安政の大獄により29歳で刑死するまでの2年半、
松陰は若き門下生達へ、新しき日本を拓く実践の道を熱く説きました。 
僅か2年半でしたが、この教育施設から幕末、維新期にかけて活躍した志士・高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など
多くの逸材を輩出したことで有名です。 久坂玄瑞や高杉晋作は、革命の途上で若き命を落としました。
しかし、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋 等、松下村塾の門下生達が、今の日本の土台を建設していきます。
20代の若き青年松陰が、僅かな間にこれほどの青年達に慕われ影響を与えたのは、もてる資質プラス、
たゆまぬ努力、先を見抜く洞察力、そして新しい日本を建設しようという熱意だったと思います。 

 

   

松下村塾

講義室だった 八畳の部屋には
松陰の像と机が置いてあります。
松下村塾というのは、松本村にある
塾という意味です。
  8畳と10畳半の部屋に土間付きの
簡素な平屋。
  松陰は野山獄での生活を終えて、 両親の家へ
帰ってきました。 といっても、謹慎の身ですから、
庭へ出ることや家族以外の者と会うこと
などは禁止されていました。
そのため、松陰はこの三畳半のせまい幽閉室に
閉じこもり、ひたすら読書や書きものをしました。
こうして二年近くの間、この部屋に閉じこもったまま
生活を送り講義を続けました。 

 

旧萩城の外堀から外側に広がる城下町は、町筋は碁盤目状に区画され、中・下級の武家屋敷が軒を連ねていた。
現在でも町筋はそのままに残り、往時の面影をとどめている。  
御成道に面して藩の豪商、江戸屋、伊勢屋、菊屋の商家が並んでいたため、横町には、それぞれの名が残る。
江戸屋横町には木戸孝允の旧宅や、高杉晋作・伊藤博文ゆかりのお寺などが並び、黒板塀の風情ある横町となっている。

   
菊屋横丁
藩の豪商・菊屋家をはじめ、
高杉晋作の誕生地がある。
なまこ壁の美しいこの横町は
「日本の道百選」の一つに選ばれている。
  菊屋家住宅   黒板塀の横町
   
萩焼の釜   高杉晋作の誕生地   のんびりした風情の、土塀と夏みかん  

土塀と夏みかん  
萩の夏みかんは、禄を失って困窮していた失業武士の救済事業のひとつとして明治9年(1986)に始められた。
空いた武家屋敷の庭などを利用してこれを育てたことにより、萩に夏みかんが多く栽培されるようになった。

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