「美の探究」



 美、とはな何なのだろうか――。
 真っ白なキャンパスに向かいクーベルは、そんな思いに囚われた。
 美とは何なのか。何をもって「醜」く、何をもって「美」しいと為すのか。この真白いキャンパスに、どんな線を描きどんな色を塗れば「美」しいとなるのか。そもそも世間一般に美しいとされているものはどのような仕組みでもって美しいと認識されるのだろう――?
 そこまで思考を進めたところでクーベルは、思わず自らを笑った。
「私も、焼きが回ったものだな」
 アイデアが枯渇し、描けなくなったからといって、こんな抽象的な問いに思いを巡らせるなんて。若い頃などは、そんなことを考える暇もなく次々と新しい作品を描いていたというのに。
 そう思うと全てが馬鹿らしくなって、絵筆を投げた。――もうかれこれ、一年以上真っ白なキャンパスを眺め続けて。不調そのものは、もう五年以上続いている。
 そろそろ、世間でも言われ始めている頃だろう。稀代の売れっ子画家クーベルも、ついに息切れか――
「ああ、もう息切れだ」
 誰でもない空間に向かい、そうぼやく。
「もう、疲れたよ」
 そう言って肩を落とし――けれど視線は真っ白なキャンパスに向かってしまう。
 キャンパスは、クーベルに話しかける。――もう、描かないのか、描けないのか。おまえの才能は無限なんじゃなかったのか。
「ああ、そう思っていた時期もあったね」
 幾らでも描けると思っていた。描くべき題材は数限りなくあったし、それはどれも斬新なもので、さらにそれを思い通りに仕上げる技術があった。世間でもてはやされ、人々はクーベルを天才だと言い、そして自身もそう思っていた。
 だが、そんな日々は永遠には続かなかったのだ。
 昔はあんなに軽やかだった筆が、今は手に取ろうとするだけで吐き気がする。真っ白なキャンパスのどこに筆を下ろしてよいかさえ、分からない。
 完全に袋小路に行き詰まり、それでもクーベルには『描く』ということしかなく、世間もそれを急かし、しかし描けないのであった。
「はぁ」
 その日、もう何度目になるかしれないため息を吐いた時だった。
「――やぁ、どうにもお困りのようだね」
 慌てて顔を上げる。「だ、誰だ!」
 しかし、どこにも姿が見えない。慌てて右往左往していると突然、肩を叩かれた。
 振り返ったそこにいたのは、人間とはとても思えぬ小さな体。ぴんと尖った耳に、切れ長の目。そして背中には、羽。
「お、おまえはいったい」
「ああ、俺は悪魔だよ」
 そう言ってにやりとクーベルに笑いかける。
「悪魔だって? 悪魔がいったい何の用で……」
「なぁに、実は俺は、画家クーベルのファンでね。それが、困ってるようだから、助けてやろうと思ってさ」
 そう言って悪魔はキヒヒと笑った。それをクーベルはねめつけながら、
「困ってる……そうさ、困ってる。描けないんだよ」
「みたいだな。あれほど豊かだった才能も、もう枯れちまったってか?」
「ああ……もう、枯れたさ。すっからかんだ」
 そうクーベルは自嘲的に笑った。それを宥めるように悪魔は、
「まぁ、そう言わず……だから、描けるようにしてやろうっていうのさ」
「描けるようにだって!?」
「ああ。あんたは別に、技術が衰えたわけじゃない。『美』の着想が湧かないんだろう? それを俺の魔力で湧くようにしてやろうってわけさ。ただし魔力といっても、何もないところから無制限に湧かせることはできない。いわば、等価交換だ」
「等価交換?」
「そう。魔力で、あんたの脳裏に美しき着想を湧かせてやろう。しかしそれは、等価交換だ。引き換えにあんたは、あんたの持つ、あんたの身の回りの『美しいもの』を奪われるんだ」
「身の回りの、美しいもの? それはいったい、どんなものなんだ?」
「さぁ、命を奪われる事は無いという以上は、分からんね。――どうだい、やってみるかい? あんただって、こんなところで画家人生を終わらせたくないだろう?」
 その問いかけにクーベルは、自らの拳をぎゅっと握った。
 ――そうだ、こんなところで終わりたくない。私は、天才なんだ!
「いいだろう、描いてやろうじゃないか。魔力とやらをかけてくれ」
 その言葉に悪魔は満面の笑みを浮かべた。
「そうくると思ったよ……期待通りだ」
 そう言って悪魔は、懐から十数粒の柘榴の実を取り出した。
「これを一粒食べれば、あんたの身の回りの美しきものと引き換えに、美しき着想が湧くだろう。ただし一つだけ断っておくと、食べるごとに魔力は増して、無くなるものはだんだんエスカレートする。それどこで止めるかは、すべてあんた次第さ」
 そう言い残して悪魔は、ぼうと煙の中へ消えていった。あとに残されたクーベルは、一粒手にとってつぶやく。
「美しき着想の湧く実……か」
 もちろん、見ているだけでは着想の湧くはずも無い。食べねば、ならぬのだ。
 こんなものに頼って芸術作品を為そうというのは、文字通り悪魔に魂を売ることであり、美への冒涜であろう。だがもう……そんな建前に拘泥していられる時期は、クーベルにとって、当の昔に過ぎていたのだ。何が何でも、描かねばならない。
 ゴクリと唾を飲み込んで、思い切って一粒飲み込んだ――その時、家の裏手から断末魔の叫び声が聞こえてきた。慌ててそちらへ走る。
 そこには、一匹の猫の死体があった。飼っていたわけではないが、よく庭先でえさをやっていたのら猫だ。
「おお、なんということだ……」
 そう嘆いて猫の死体にそっと触れた時だった。クーベルの脳裏に、生ける頃の猫の躍動的な姿が鮮明に浮かんだ。
「これだ!」
 慌てて、猫の死体もそのままにキャンパスに向かう。さっきまでの不調が嘘のように、筆が軽い。それは、なぜ今まで思いつけなかったのかが不思議なくらいに。
「描けた……」
 久しぶりのクーベル画伯の新作は、大好評をもって迎えられた。
 それでもやはり、次の作品をと言われるとアイデアは浮かばない。仕方なくクーベルは、再び柘榴の実に手を伸ばす。
 今度は、長い間ずっと大切にしていた、骨董品の壺が割れた。そのあまりの悲しみに在りし日の姿を思い浮かべれば、再び着想が湧いた。そして、描けた。
 もう――もう止めよう。そうも思う。けれど、止まらないのだ。世間が、それを求めているということもある。名画家としてのプライドもある。だがそれ以上に、自らの生み出す美の快感を欲していたのだ。
 矢継ぎ早に描けた若い頃のように、そして若い頃よりも円熟した技術をもって、未だこの世にない最高の「美」を生み出せるという快感。それは、年をとったクーベルが忘れていた、絵を描くという行為の根源的な目的であった。
 別に、売れなくたっていい。評判にならなくたっていい。美を愛するものとしてたとえ全てを失おうとも、今ある以上の最高の美を生み出したい。
 そんな欲求にクーベルは、逆らうことが出来なかった。
 しかし、柘榴の実に手を伸ばすたび失うものは、悪魔の言うとおりエスカレートしていった。ある時は、唯一無二の親友を事故で失った。愛すべき故郷が、戦火で跡形もなく消え去った。家の窓から見下ろす、お気に入りの港町の風景が、突然の地震で崩壊した。そしてそのたびにクーベルは、それを失った悲しみに暮れ、その悲しみが深ければ深いほど失ったものへの思慕を強め、最高の芸術作品を生み出していった。
 次は、何を失うのだろう。それは、恐怖以外の何物でもない。しかしそれと同時に、好奇心の行く先でもあるのだ。それは、画家クーベルの人生をかけた、好奇心の行き先。
 しかしそんな柘榴も、ついに最後の一粒となった。クーベルも、ずいぶんと老いていた。だが、美への探究心は相変わらず衰えていなかった。
 意を決して、手に取る。――今度は、今度は何が起こる!
 そう思い身をすくめる。だが、意外なことに何も変化は無かった。不幸を知らせる電話も、平和を切り裂く悲鳴も聞こえなかった。
「おかしい……いつもならすぐに何か起こるのに」
 しかし、わが身を振り返れば何とも知れぬ創作欲が湧いてくる。それが、何を失ったからなのかは分からなかったが、とにかく描きたい。その衝動に任せクーベルは、キャンパスに向かった。
 筆は、勝手に進んだ。しかしクーベルには、それが何だか分からない。というよりも、それが美しいかどうかさえもよく分からない。ただなんとなく、脳裏にある像を抽象的に引き結んで行くだけ。
 漠然とした不安を抱えたまま絵は描きあがった。絵筆を置いて、改めて絵を眺めてみるが、やはりクーベルには、それが美しく仕上がっているかどうかまったく確証が持てなかった。
 その時だった。ドアをノックする音。クーベルを贔屓にしてくれている画商だった。
「ああ、ちょうどいいところに来た。たった今新しい作品が完成したのだが、出来に自信がなくてね。見てくれないか」
 もちろん画商は喜んでうなずいた。
「おお、抽象画ですか、珍しいですね。でも、今作も先生らしく丁寧な色使いで、最高ですよ。美しい!」
 そう言われてもクーベルには、やはりそれが美しいかどうか分からなかった。
「そうそう、前作のこの絵ですがね……」
 と、画商はクーベルが以前に描いた絵を取り出した。だがそれを見てクーベルは愕然とした。あれほど美しく描けたと思っていたその絵を、美しいと思えないのだ!
 慌てて立ち上がり、手放していない絵を飾ってある部屋のドアを開ける。今までクーベルが全身全霊を賭け生み出してきた「美」に取り囲まれ――それでもやはりそれは、美しいと思えなかった。
 何を失くしたのか、今、分かった。
 失くしたものはクーベルの「美」を「美」と感じる心。それが、クーベルの持つもっとも美しいものだったのだ。
 ただの色あせた絵の具の塗り重ねとしか見えぬ模様の群れに囲まれてクーベルは、思った。

 ――美、とは何なのだろうか?




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